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心情開拓
心霊を育てる生活原則(145)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

11 肯定的受肉
(1976年912日 東京教会)

▲李耀翰先生

神に所有される私に

 信仰路程において一番難しいのは、自分を否定して、主体視、絶対視することです。主体者のものなら、これは絶対視しなければなりません。私が私ではないのです。私は私を否定できないのです。主体者のものとして所有されたと信じるなら、自分は自分を絶対視しなければならないのです。

 イエス様の信仰がそうなのです。「自分は自分でないのです。神のものです。だから、私の言うことを聞かなければなりません」と言うのです。それは、自分によってではないのです。神の願いによって、そう言うのです。神の啓示です。神の願いだから私が話したのですが、1パーセントも自分の意思が入っていないことを、イエス様は、徹底的に言ったのです。「私は私でない、だから絶対だ」と。

 先生の信仰もそうなのです。絶対視するのです。自分を否定しながら、主体者の立場のものとして、絶対視する時に心情を創造するのです。初めての人は、分かりにくいかもしれませんが、無視するようで、絶対視しなければならないのです。今までの自分を無視しても、主体者のものとしての自分は、「ああだ、こうだ」と批判できないのです。分かりますか。

 もし結婚したら、自分は自分と思ってはいけないでしょう。日本の場合、中村さんという女性が、鈴木さんという男性と結婚したら、姓が変わってしまうでしょう。根本的に否定してしまうでしょう。「中村ではない、鈴木だ」というふうに。

 それが私たちの信仰観において、そっくりそのまま当てはまるのです。では、鈴木になったなら、自分をどう思えばいいのか。自分を絶対視しなければなりません。自分は新婦、主人のものであると。主人の事情によって、主人の喜びによって、主人の目的を100パーセント絶対視する自分になるのです。それが一体化する立場でしょう。このように例えて話せば、難しくないと思います。

 だから、私たちの路程において自分をいい加減に、でたらめに取り扱ってしまうのです。それから、アベルがカインをでたらめに取り扱っての不信の条件と、結局そこで問題になって、歴史は繰り返し延期してきたという事実を、私たちは「原理」を通して学んでいるのです。

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 次回は、「兄弟関係の高揚」をお届けします。


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