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日本人のこころ 83
西堀栄三郎『石橋を叩けば渡れない』『南極越冬記』

(APTF『真の家庭』304号[20242月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

西堀榮三郎記念探検の殿堂
 滋賀県東近江市に「西堀榮三郎記念探検の殿堂」があります。1957年から58年にかけて第一次南極地域観測隊の越冬隊長を務めた西堀が、帰国後、祖父母と両親の出身地である湖東町(今の東近江市)の小学校で講演し、夢を持ち続けるよう生徒らを励ましたのに当時の町長が感動したのがきっかけで建設されました。

 近江商人の地でちりめんを扱っていた西堀の両親は、京都に出て事業を拡大します。1903年、京都市に生まれた西堀は12歳の時に京都の南座で白瀬中尉の南極報告を聞いて南極に憧れ、42年後にそれを実現したのです。同館には東京・大田区鵜の木にあった自宅の居間が移築されていて、何度かお訪ねしたことがある私は懐かしさがこみ上げてきました。

▲西堀栄三郎

 西堀の生涯は実に波乱万丈でした。少年時代に目指した探検は、南極からヒマラヤの高峰にまで足跡を残し、科学者・技術者として、東芝では自ら真空管の開発・製造にも携わり、日本の産業全体の発展のため品質管理から原子力、海洋と多くの分野に探検的精神を発揮しました。さらに、後進を育成した教育者、人としての生き方を示した哲学者でもあったと評価されています。

 京都一中時代に今西錦司らと登山会を結成した西堀は京都周辺の山々に登り、京大に進んでからの東大との合同スキー合宿で生まれたのが「雪山賛歌」で、西堀の作詞とされています。1922年には来日したアインシュタイン博士夫妻を京都・奈良に案内し、大きな影響を受けました。京大講師になった西堀は白頭山にも登頂しています。

 助教授になった西堀は、研究者よりもエンジニアの道を選び、東芝に入社、上京後、アメリカへ留学し、真空管の研究をしながら南極の探検者を訪ね歩き、資料を収集します。帰国後、海軍の要請を受けて真空管「ソラ」を開発、誰でも作れるよう製造マニュアルまで完備させたのです。

 戦後は独立の技術コンサルタントとしてアメリカの品質管理を日本の産業界に導入してデミング賞を受賞、戦後日本の工業発展の礎となります。その後、京大に復帰した西堀は、第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長や日本山岳会会長を務め、日本初のマナスル登山計画時にはネパール政府との交渉をまとめ、日本原子力研究所理事や日本生産性本部理事も務めました。そして1989年に86歳で永眠します。

日韓トンネルに共感
 そんな西堀が国際ハイウェイ・日韓トンネルプロジェクトにかかわるようになったのは、友人のアメリカの原子力学者ワインバーグの誘いで1981年、ソウルで開かれた第10回科学の統一に関する国際会議(ICUS)に参加したのがきっかけでした。会議の創設者である文鮮明師のスピーチ「国際ハイウェイ建設の提唱」を聞いた西堀は、「これだ!と思い、ビクッときた」と印象を語っています。

 「世界中の方々が『無茶なことを言う』と考えたことでしょう。私は夢を持っていたので、一人の人間として爆発したのです。もう一つ言えば、日本は太平洋の一孤島ですが、トンネルが完成した暁には大陸と陸続きになる。…これは子々孫々が喜ぶに違いないという気持ちもあったんですね」と後に話しています。

 その時、西堀の頭に浮かんでいたのは、日本山岳会会長の座を譲ったばかりの佐々保雄北大名誉教授で、地質学者として青函トンネル建設にかかわっていたからです。198112月、日本山岳会の年次晩餐会の席上、「あなたにうってつけの仕事がある」と西堀が渡したのが、日韓トンネルのリーフレットでした。

 西堀の話を聞いた佐々は「不思議な神の導きを感じていた」と言っています。その前年、教え子のソウル大学教授に招かれ、学生たちに特別講義をした佐々は、最後に「君たちと日本の若者たちの協力で日韓トンネルをつくってほしい」と結んでいたからです。

 まずは専門家を集めて研究会を作りたいので、学術団体のスタッフに会うよう西堀に言われた佐々が、その場所に指定したのが旧梨本家の屋敷を改築した旧赤坂プリンスホテルの別館でした。梨本家の娘・方子(まさこ)は戦前、李氏朝鮮(朝鮮朝)の李垠(イウン)殿下の妃になった女性です。そのスタッフが私で、李方子とは秘書を務めた松下正寿が懇意にしていました。以後、研究者や技術者による日韓トンネル研究会が発足し、情報収集と調査研究に取り組み、約1年後、その報告書を基に国際ハイウェイ建設事業団の活動が始まったのです。

 西堀の業績と思想は『石橋を叩けば渡れない』(生産性出版)『南極越冬記』(岩波新書)によく書かれています。西堀は「自ら経験することで役に立つ知識が得られる」「夢を持つからこそ、それを実現しようとして計画を立てる」などの言葉を残しています。

▲西堀榮三郎記念探検の殿堂にある自宅の居間

 私が一番覚えているのは、日本産業規格(JIS)に取り組んだ話です。南極である機械の部品を手作りした西堀は、日本の工業製品の規格の不統一を痛感し、これを改善しなければならないと考えました。品質管理からQCサークルを生み出したように、国際標準を日本の風土に土着させたのです。その基本は一人ひとりを大切にし、その成長を引き出すこと。日本の品質管理は人質管理と言われるゆえんです。西堀から人としての基本を教わった思いでした。

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