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日本人のこころ 84
『古今和歌集』

(APTF『真の家庭』305号[20243月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

心を言葉に託し
 日本最古の歌集『万葉集』が奈良時代に歌人の大伴家持らによって編纂されたのに対して、『古今和歌集』(『古今集』)は平安時代に、歌好きだった醍醐天皇の勅命によって作られた日本初の勅撰和歌集です。撰者は紀友則(きのとものり)、紀貫之(きのつらゆき)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)の4人で、『万葉集』に選ばれなかった古い歌から撰者たちの時代までの歌を選び、全20巻に約1100首の歌が収められています。

 紀貫之が書いた序文「仮名序」には次のようにあります。

 「やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり」

 和歌(やまと歌)は人の心を種として、さまざまな言葉になったもので、世に生きる人は、見聞きしたり、経験したりすることが多いので、そこで感じたことや気持ちを、見たり聞いたりしたものに託して表現する――という意味です。

 心の内にあるものは見えませんが、それが言葉に表現されると、他の人にも分かるようになります。それを紀貫之は、種から芽が出て、やがて葉を茂らせるようなものだと、植物になぞらえて説明したのです。

▲紀貫之(狩野探幽『三十六歌仙額』/ウィキペディアより)

 和歌を詠む文化は万葉の昔からあり、中国から漢字が伝わったことで、人々は万葉仮名で歌を書くようになります。律令制が導入されると、貴人らは漢文によって業務を行いながら、漢詩によってそれぞれの思いを表現するようになります。人が集団で作業をする場合、気持ちが伝わらないとうまくいきません。ですから中国でも古くから漢文と漢詩ができるのが官僚の条件だったのです。

 平安時代になり、894年に菅原道真の進言で遣唐使が中止されたころから、それまでの唐風(とうふう)文化に対して日本古来の国風(こくふう)文化が盛んになってきます。加えて漢字から仮名が発明され、文字を学び書くことが容易になったことから、仮名書きの和歌が多く作られるようになったのです。宮中においても、漢文で仕事をしながら和歌で心を通わせることが日常的になってきます。紀貫之が仮名書きで日本初の日記文学『土佐日記』を書いたのもこのころです。

 紀貫之の代表作の一つは「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」(人の心はどうだかわかりませんが、なじみの場所では梅の花が昔と変わらずよい香りで咲いています)。

 なじみの場所とは奈良の長谷寺のことで、久々に訪れた宿の主人に、「ずいぶんお見えになりませんでしたね」と言われ、庭に咲いていた梅を一枝折り、この歌を主人に贈ったのです。見事な機転ですね。

恋も歌のやりとりで
 18首の歌が選ばれたのは美女とされる女流歌人の小野小町(おののこまち)です。夢を詠んだ歌が多く、代表作は「思ひつつぬればや人の見えつらむ夢としりせばさめざらましを」(あの方を思いながら寝たから、夢に現れたのでしょうか。夢と知っていたら醒めなかったのに)。

 愛しい人を夢で見るのは今も同じで、和歌の心は千年の時を超えて今に生きています。

▲小野小町(狩野探幽『三十六歌仙額』/ウィキペディアより)

 「花の色はうつりにけりないたづらにわが身よにふるながめせしまに」(花の色は褪せてしまった。春の長雨の間に。私も物思いにふけっている間に、むなしく老いてしまったよ)もよく知られています。

 「ふる」には「降る」と「経る」が、「ながめ」には「長雨」と「眺め」がかけられ、眺めるは物思いにふけるという意味です。

 『源氏物語』を書いた紫式部が主人公のNHK大河ドラマが放映されていますが、当時の恋は歌のやりとりを重ねることで成り立っていました。遠くから見たり、うわさを聞いたりして引かれた女性に、男性は思いを詠んだ歌を届けます。それが気に入ると、女性は自分もしくは代わりの女性が歌を返すのが恋の始まりです。歌は相手だけでなく周りの人にも読まれ、二人の関係は半ば公になるので、歌は社会的なコミュニケーションでもあったのです。

 当時は妻問婚(つまどいこん)といって男性が女性のもとに通うのが結婚で、それがどちらかの理由で途絶えると離婚になります。子供が生まれると女性の家で育てるので、その家の主人、女性の父親の影響が強くなります。そのため藤原氏は、自分の娘を天皇の后にして、次の天皇の外戚になろうとしたのです。

 特異なのは阿倍仲麿(あべのなかまろ)の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」です。吉備真備(きびのまきび)らとともに遣唐使で唐に渡り、科挙に合格して玄宗に仕えて重用され、李白などとも親交を深めました。35年後にやっと帰国が許され、送別の宴で詠んだ歌とされますが、船が遭難したため再び唐に戻り、官職に復して、帰国できないまま亡くなりました。

 「君が代」の元になったのは、よみ人しらずの「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」。「君」とは「大切な人」の意味で、その人の幸せが長く続くよう祈る思いを詠ったのです。

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