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シリーズ・「宗教」を読み解く 301
キリシタン時代の女性たち 3
日本初の女子修道院会創立に尽力した、もう一人のジュリア

ナビゲーター:石丸 志信

 キリシタン時代にその名を遺した婦人にもう一人のジュリアがいる。キリシタン大名の一人内藤如安の妹、内藤ジュリアである。

 若くして夫を亡くしたジュリアは弔いのため尼僧となり勤行に励み、仏教の布教に努めていた。
 31歳頃、京都で宣教を続けていたオルガンティノ神父の導きでキリシタンの教えを学び洗礼を受けている。

 オルガンティノ神父はイタリア生まれのイエズス会士で、1570年に宣教師として来日。いち早く日本語を習得し、日本の宗教文化もよく研究し、1577年から京都で30年間宣教活動にその身をささげている。

 オルガンティノ神父は日本人を愛し、日本人からも慕われた人物。
 京都に「南蛮寺」と呼ばれた教会を建て、信長が築いた安土城下にセミナリオを建て、指導者教育に尽くした。
 キリシタン大名の良き霊的な指導者でもあり、江戸時代初頭までキリスト教の復興発展に大きな足跡を残している。

京都南蛮寺跡

 知性豊かで信仰心の深い内藤ジュリアはこの良き指導者を得て、大名の妻たち武家社会に生きる女性たちに大きな影響を与えていく。
 彼女の影響でキリシタンになった未亡人や独身女性と共に日本で初めての女子修道会であるベアタス会を創立することになった。

 会員の中には、キリシタン大名大友宗麟の娘といわれるメンシア大友などがいた。
 この修道会は、ローマ教皇の正式認可は受けていなかったが、会則を定め、修道生活の基本である清貧、貞潔、従順の三誓願を立てて入会し、修養と愛の実践、布教活動を展開していった。

 しかし1612年になり、徳川幕府はキリシタン禁を出し、宣教師だけでなく高山右近ら代表的キリシタンを海外追放に処することを決定した。
 この時、内藤如安とその家臣、内藤ジュリアと14人のベアタス会修道女も右近と共にマニラに流刑の身となった。

 マニラに移ってからも内藤ジュリアらベアタス会修道女の生活は変わらなかった。
 マニラの日本人村サン・ミゲルに修道院を建て、祈りと愛の実践活動を続けた。

 それから13年を経た1627325日、内藤ジュリアは天に帰することになった。62年の生涯だった。



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