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シリーズ・「宗教」を読み解く 300
キリシタン時代の女性たち 2
運命に翻弄された明智光秀の娘、細川ガラシャ

ナビゲーター:石丸 志信

 キリシタン時代に信仰に生きた女性で、おたあジュリアと並んで世に知られているのが細川ガラシャである。
 彼女は、1563年に明智光秀の娘として生まれ、実名は玉子。15歳頃に同い年の細川藤孝の嫡男忠興に嫁いでいる。
 主君織田信長の命による政略結婚であったが、互いに愛を育み、32女をもうけた。

細川忠興(ウィキペディアより)

 幸福に見えた結婚から4年、彼女の運命を大きく変える出来事が起こった。
 父明智光秀が主君織田信長に反旗を翻し、信長のいる本能寺を急襲した。
 信長は自害したが、羽柴秀吉が備中高松城攻めからすぐさま取って返し、明智家の者たちを追討した。「謀反人の娘」の烙印(らくいん)を押された玉子だけは一族の中で生き残った。

明智光秀(ウィキペディアより)

 細川家の当主藤孝は家督を忠興に譲り隠居した。
 代わって当主となった忠興は、玉子を丹波のへき地に幽閉して秀吉に恭順を示した。19歳の身で、幼いわが子と別れ蟄居(ちっきょ)する身となった玉子は、生きながらにして地獄の苦しみを味わうことになった。
 その後天下人となった秀吉は、忠興に温情をかけ玉子の幽閉は解かれた。

 その頃、キリシタン大名高山右近は盟友たちを信仰に導こうと努力していた。
 忠興も右近から話を聞かされたので、屋敷に戻っては玉子にその話を聞かせた。心を動かされた玉子は、もっと深く学びたいと思ったが、自由な外出を許されてはおらず、その願いはかなわなかった。

 ところが、忠興が九州征伐に出陣したおり、侍女たちとひそかに屋敷を抜け出し教会を訪ね、日本人修道士の説教を聞き、その場で洗礼を望んだ。彼女は素性を明かさなかったためその場での洗礼は許されなかった。
 その後外出の機会が得られなかった玉子は、代理で派遣した小侍従を通して教会の教えを学んだ。

 1587年に秀吉が伴天連追放令を出したのを聞いて、急ぎ小侍従を送り、その小侍従がまず洗礼を受け、洗礼の授け方を教えられた小侍従によって玉子は洗礼を受けた。小侍従は洗礼名マリア、玉子はガラシャ(神の恩寵、恵み)となった。

 玉子は美しく利発だが、以前は怒りっぽかった。
 洗礼を受けてからは信心に励み明るく穏やかになっていった。そんな彼女に夫忠興はかえってつらく当たった。一時、離縁を考えたが、オルガンティノ神父に諭され、耐え忍んだ。

 15972月、日本26聖人殉教を命じた豊臣秀吉は、翌年に病没し、天下は石田三成と徳川家康の覇権争いとなった。
 細川忠興は世の趨勢(すうせい)を見て徳川方に付いた。

 三成は彼の翻意を図るため大阪城内に妻子を人質として差し出すことを要求した。会津征伐に向かう徳川家康に従った忠興は、玉子を決して人質には出さず、連行される段には彼女を殺し、自害せよと家臣に命じて出陣した。

 その時が迫ると玉子は遺書をしたため、白装束に身を包み、祈りをささげた後に、家臣に胸を突かせ最期を遂げた。

 38歳の玉子はこのような辞世の句を遺した。

 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

 殉教者にはなれなかったが、信仰を保つにも難しい環境の中で道を求めその教えに忠実に従い、最期は細川家存続のために夫の命に従い犠牲となった。



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