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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(137)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
十、約束と誓い

▲金元弼先生

約束の永遠性と誠意

 約束が成し遂げられるまでには、必ずある期間を経過しなければいけません。約束は、未来の目的を成就するために、今するのです。時間性があるのです。ですから約束をした主体と対象の二人の人は、必ずその約束を守っていかなければならない過程をもっているのです。相手が途中で破ったとしても、こちらが目的地まで完全に守ったというところまで行くならば、完全なるプラスには完全なるマイナスが自動的に現れるのと同じように、神はその代わりに新しい人を準備してくださるのです。

 ですから、アダムが上まで上がったとして、エバが途中で堕落した場合に、神はもう一人のエバを採用してくれるということになります。ですから、約束を破った人が問題なのではなく、約束を守る人が問題になるのです。

 神から見れば、一方が最後まで約束を守ったならば、別の人を立てることができるのです。ところが、どちらも守れないときには、神の基盤がありません。そこでまた二人を造って出発しなければならないということが起こるのです。すると神の摂理は延長されますか、短縮されますか。それは延長されます。一人だけでも守ってくれれば、その人によって延長しないで、順調に進めることができるのです。一人が約束を完全に守るならば、たとえ相手が守らなかったとしても、もっといい相手が現れるということです。

 夫婦でも同じです。一方が約束を守らなかったとしましょう。しかし片方が、「私はこの相対者を求めて幸せな家庭をつくる」という心を変えずに、約束を守っていくならば、代わりの者が現れて、理想家庭をつくるという目的が、結局は成り立つようになるのです。ところが、「世の中はむなしい、信ずるものがない」と言って、二人ともそうなれば、その家庭から幸せは生まれないでしょう。

 ですから、先生が今まで歩んでこられた道は、たとえ兄弟が先生を信じないで教会を出ていくとしても、先生が常に約束を守られたので、その人に代わるいい人がどんどん現れて、摂理が成し遂げられてきたのでした。

 先生と私たちの約束には、必ず神とサタンがいるということをお話ししました。その例え話を一つしてみましょう。

 1967年、先生は韓国の幹部一行を連れて、日本に行かれた時に、当時、日本の兄弟に祝福を予定していました。ところが先生は日本を離れる時に、一つの儀式を行われました。それは神の前で、「日本の祝福を延長しなければならない」という儀式でした。先生も神様に、「これをこうします」と必ず報告して、それがそのとおりにならないときには、必ずその理由を説明して、変えていかれるのです。

 教会員がリーダーと約束して、「私はきょう、いつまで、どこどこへ行ってまいります」と言いながら、事情によってそれができない場合はどうしますか。世の中でも、それができなかった理由を必ず話さなければいけません。それもできなければ、リーダーは教会員を信頼できなくなります。

 韓国で、先生は聖日の5時に敬礼式をされて、必ず私たちに説教してくださいました。本部教会から相当離れた所に清平(チョンピョン)があります。そこにおいでになりました。その次の日は聖日でしたので、そこから出発して本部教会の礼拝に参加されることになりました。その日は、たくさんの人たちが集まるようになっていたのです。

 先生は早めに出発しましたが、雨が降って、船やもろもろの状況によって、何分か遅れるようになりました。そこで先生は、約束の時間に遅れるときには、約束を守れないことに対するお祈りをするとおっしゃいました。

 その日、先生は、「公的な約束の時間を守れないときには、その時刻から悔い改めの祈りをしなければいけない」と話してくださいました。このように、約束とは大変なことなのです。先生御自身がそのようにして守っていらっしゃるのです。二番目に、「あなた方は時間を約束したにもかかわらず、まだ全員集まっていない」と指摘されました。心情的にも、時間的にも、外的にも、先生御自身としては約束を守っているということを、はっきり証してくださったのです。事情が変わって遅れたけれども、先生はその前に既に出発していたことを、はっきり証されているのです。

 分かりやすく言えば、オックスフォードからランカスターゲートまで、1時間半かかるのであれば、先生は、1時間半前のさらに10分前に、もう出発していらっしゃるのです。しかし、途中で車が故障して遅れました。それで約束した時間になると、先生はその時から悔い改めのお祈りをされるということです。「私が遅れたがゆえに、この人たちは今、この時間に待っているでしょう」と言って、その人たちのためにお祈りをするのです。

 ところが、私たちはどうでしょうか。より上の立場の人は遅れるのが普通だと思うし、それが権威あるものと考えています。先に来るのは下の者だと考えるのです。皆さん、そういうことはありませんか。約束を守らなくても、何の呵責も感じないでしょう。私たちがそうだから、メンバーもそうなるのです。にもかかわらず、メンバーが遅れたら、「なぜ遅れたのか」と叱ります。先生がこういう外的な時間の約束もそのようにされるとするならば、私たちは永遠なる生命を懸けた約束に対してはどうすべきか、考えてみてください。

 足の折れた朴正華(パク・チョンファ)さんのことを聞いたでしょう。先生が牢屋から出られて、平壌(ピョンヤン)に帰られた時、その人は足を打たれて骨が折れて歩けない状態でした。彼は自分のお姉さんの家に一緒にいて、治療していたのです。そしてお姉さんの家庭が避難する時に、足が折れている彼を連れていくことができないので、置いたまま行ってしまったのです。一人で残されたら殺されてしまいます。

 それで先生は心配して、彼の故郷まで問い合わせて、居所を調べ出しました。そして私が彼を連れてきて、先生に会わせました。その後、その太った人を自転車に乗せて連れてきたのです。ところが、先生の愛する母親、父親、兄弟姉妹は全部、北にいらっしゃいました。すぐ近くの所でした。しかし、その人たちを連れてこないで、朴さんを連れてきたのです。そういうことは、できることではありません。先生は、神との約束を守ったのです。朴さんとの約束を、生命を懸けて守ったのです。約束というものが、どんなに難しいことか分かると思います。

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 次回は、「約束は互いがするもの」をお届けします。


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