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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(134)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
九、天情と人情

▲金元弼先生

人情と天情、自己否定

 先生は、食口(シック)が教会を訪ねて帰る時には、食口の後ろ姿が見えなくなるまで、門の所でじっと立って見送られました。食口がまだ帰って来ない時には、外に立って待っていらっしゃる先生でした。そういう先生であるがゆえに、お母様が帰ったとしても、親孝行の思いは、いつまでも、いつまでも、心から離れるはずがないのです。

 皆さんも、神のために決心してやっているのに、愛する兄弟、愛する友達、愛する親がこの道を理解できないで、「家に帰るように」、あるいは「一緒にいるように」と言って涙を見せるならば、心が非常に弱くなります。そして親の所に、友達の所に戻っていくということもあるのです。もし、教会員が皆様を訪ねて、「私はどうしたらいいのでしょうか。家に帰ったらいいでしょうか」と尋ねますと、皆様自身も、どのように指導してあげたらいいのか、心が弱くなるときがあると思います。

 我々は人情と天情に対して、こんがらがるときがあります。もともと、堕落しなかったとすれば、人情は天情に通じ、天情はそのまま人情に通ずるものでした。ところが堕落した結果、人情と天情は一致しないものとなりました。それゆえに、私たちはまず天情を結び、その次に人情を立てなければならない、そういう復帰の道を行くようになったのです。

 そこで、2000年前に来られたイエス様も、私たちに教えてくださったのは、まず「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカ1426)ということです。その事情がよく分かっていたイエス様は、「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ1034)と表現しました。誰よりもイエス様を愛さなければならないことを教えました。イエス様との情は、天情を意味します。自分の兄弟や親子との情は、人情を表します。ですから、「私をより愛せよ」とは、人情よりも天情を立てなさい、ということです。

 そういう点をはっきりさせていないときには、今の私たちであっても、神の道をまっすぐに行けないことがあります。この世の中の人情を切ることが目的ではありません。堕落して汚れた因縁をもっている人情を一度分別して、天情につながることによって、再び人情を立てるためです。ですから、過去の自分、堕落した自分を否定することによって、初めて本然の自分を立て得るのと同じです。宗教が自己否定を主張したのも、その点からなのです。

 しかし、自己否定は、本然の自分の否定ではありません。私たちも、最初にみ旨の道に入ったころ、すべてを分別する生活をしました。親との関係、社会との関係も全部分別していました。その当初は、兄弟でも親でも、サタンの血統圏にいるように考えて、分別する生活をしたこともありました。先生は、そのように教えたのではないのですけれども、私たちには、そういう心がありました。親子の関係も、社会の関係も、全部永遠に切るものだと思いました。

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 次回は、「分別するのは一体化のため」をお届けします。


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