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心情開拓
心霊を育てる生活原則(124)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

9 変貌山上のイエスとペテロ
(1974年1215日 東京教会)

▲李耀翰先生

信徒を探し求めて

 マリヤに望みを失ったイエス様は、第二摂理としてナザレやカナンの付近で、ユダヤ教に伝道を開始したのです。その伝道は、み言(ことば)の分かるレベルの高い信徒たちを探し求めました。

 なぜか。家庭で授受できないから、外で伝道したのは当たり前です。私たちも伝道する際、み言と授受できるレベルの高い人を探し、選ぼうとするのと同じです。もちろんイエス様は、家庭で授受できなかったから、神の願いの相手を、カペナウムとナザレとサマリヤと、徐々に探しに出掛けたに違いないのです。サマリヤの井戸でサマリヤの女と会った時に、自分を率直にメシヤと証(あか)されたのを見ると、マリヤを探しに出掛けたことも分かります。

 イエス様は、自分の家庭に希望を失ったので、「どこかに私を知り、私自身の秘密を任せられる人がいるのではないか」と思って、3年間走り回りました。

神に選ばれて来た私たち

 この道を歩きながら、どれほど悩んでおられたイエス様でしょうか。

 家庭の悩み、弟子の悩み、洗礼ヨハネの悩み……。その中で、弟子ペテロの問題について考えてみたいと思います。

 ペテロはイエス様を最後まで知ることができませんでした。イエス様がどういうお方で、どういう事情圏に立っているかを全然知らなかったペテロだったのです。

 知るべきことは、イエス様が神の子であるということであり、その次には、イエス様が神と関係していることを常に知っておくのが信仰者としての責任だったのです。

 また自分も神に選ばれ、神と共に暮らしていることを悟らなければなりませんでした。

 そしてさらに、神の内容から、時を知り、摂理を知るべき立場にあったのですが、イエス様が山上でモーセとエリヤと語り合っていた時、ペテロがそれと関係なかったように、私たちは常に摂理を知り、時を知り、選ばれた者としての自覚をしなければ、当時のペテロと何ら差がありません。

 私たちは、神に召されているというのは間違いないのです。考えてみれば、死亡の道だとか何とか、世間から批判され、迫害されてきたのです。まして、自分が価値を知って来たのでもない。自分が未来を知って来たのでもない。何にも知らずに、結局何かに引かれて来たということからして、明らかに選ばれて来た証拠です。そのことを知らずして信仰生活をおろそかにするために、誇るべき価値を失い、おぼれていってしまうのです。

 今の現実の生活を貴重にしなければなりません。ペテロがイエス様を尊敬するのなら、その場で悔い改めなければならなかったはずであり、「こういう先生を知らずにいて、申し訳ない。何も言えない。顔を上げられない」、その恥ずかしい心で泣きながら黙っていなければならなかったのです。

 これから命懸けで先生と共に歩こうと決意しなければならないペテロであったのに、喜んで、「ここに家を建てましょう」とか、とんでもないことを言って、イエス様を不信しているのです。どれほど悲しいイエス様だったことか。

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 次回は、「許されない自分の判断」をお届けします。


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