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心情開拓
心霊を育てる生活原則(122)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

8 永遠に生きる信仰

▲李耀翰先生

私の内のマリヤ、マルタ、ユダ

 永遠な人と、時間の中にいる人とは、全然合わないのです。永遠性をもった人と、過去に暮らして世間と賭(かけ)をする人とは、全然合わないのです。世間に利口な人は、永遠性をもった人を見た時には、愚かな骨のない人間に見えるのです。なぜ高い油を費やすか。イエス様のそばに座って足につかまってこんなに泣いたら、世間の人はどう見るか。この女によって私たちの行く道は困ることになる、男たちはみなそう考えたのです。

 この問題は、私たちに共通した問題であって、私たちは全部そういう素質を、ここの中に縮めてもっているのです。自分一人がみ言(ことば)を聞いて喜んで、それをもって信仰するマルタのような私もこの中にあり、また協調的に、心情的に暮らそうとするマリヤのような、本当に悲しんでいるマリヤのような本心もあります。

 それから、徹底的に堕落性による自分という、イスカリオテのユダのような意味でも、この三人が私たちの中に集まっているのです。これを、聖書の中にあるというよりも、自分の中にも三つの主流がここに総合してあるのです。

 だから、あなたたちも、ユダのことを言ったら、「ははあ、私に似ているんだなあ」、マリヤのことを聞いたら、「ははあ、それもそうだなあ。それは知ったらそうなるはずだな。それも理解できる」、それからマルタのことを考えたら、「私も仕事によって、過去に暮らす時がたくさんあったなあ」。

 マルタの生活もやったし、マリヤのようにみ言にも飢えて、夕方になるのも知らずにみ言に触れた時もあるし、それからユダのような考え方もするのです。

 三人をもっている私たちは、そのどっちが中心か。堕落性を中心として言葉は立派にラッパを吹きながら、自分は責任をもたない人間も私たちの中にいるのです。

 ペテロも、イエス様に生命をかけますと言ったのは、自分の堕落性を中心として、イエス様は必ず成功すると思ったから、そう言ったのです。滅びるのだったら行かないし、信じないのです。確かにイエス様のそばに座って主権をもつようになるのだと、こういういいことばかり考えているのです。それで血統的な立場で信仰したのです。

 それからマルタみたいに意識的に、仕事がおもしろく信仰する人がいます。自分がやっていることが神を喜ばせるのだと。内的な自分の生命はほうっておいて、み言を悟った因縁によって、堕落性というよりも知的信仰によって、こうすればイエス様にふさわしいのだと、自分の頭でもってイエス様を知るのです。

 しかしマリヤは、自分というものを超越しています。本心は自分を考えないのです。主体者に完全に主管されているのです。主管されたら実感するのです。これが私たちの本心の願いです。今までみ言をもって相当力を得たけれども、きょうもまた、その土台の上に力を得たいのが私たちの願いです。永遠に暮らしたいのが私たちです。私たちは存在しているけれども、堕落性を土台として存在しているのか、考えを土台として存在しているのか、本心の心情を土台として完全主管されているのかが問題です。

 これをアダム家庭的に解釈すれば、ユダは天使長、マリヤはアベル、マルタはカインです。カインは「ヤハウェのやったことは間違っている、なぜ長男を祝福しないで、次男を先に祝福してしまったのか」、こう思ったのです。自分が思ったとおりにしてくれなかったので不快心を抱いたのです。弟を先に祝福したので、長男は面子がなくなり、恥ずかしくなったのです。不平を言ったということは、結局ヤハウェのやり方は自分のやり方よりまずいという意味なのです。

 だから、マルタがイエス様を見て、マリヤを早く炊事場へよこしなさいというのは、結局イエス様も食事の時が来たのに知らないのか、という意味です。「我」がどれほど強いかを意味しています。自分は自分の責任圏内で真心を込めてやればいいのに、「人まで干渉して、こんなにたくさん仕事があるのに、あの人はじっと座って」とか、不平を言いながら仕事をやってはいけないのです。

 こういう人間を通じて自分を発見するのです。マルタがそうしたのでなく、私もそうしたのです。「永遠の価値をマリヤだけが立てるのではなく、私たちも立てられる。私たちも今から永遠に暮らすことができる。イスカリオテのユダだけがユダではなく、自分もイスカリオテのユダである」というふうに、この人間を自分だと思って実感しなくてはならないのです。

 どれを主体として暮らさなければならないか。マリヤを中心として、みな張り切っていきましょう。私たちは天の父の心情を立てて、兄弟の心情と関係を結びながら暮らしましょう。こうして本当の永遠な因縁を結んで、過ぎ去っても永遠に忘れられない、本心を中心として結んだその瞬間、その瞬間が永遠に続けば、どれほど素晴らしいかと思います。

《祈り》
 イエス様の生涯において、あなたの秘密をもっていながら、だれにも話せませんでした。そのイエス様の一生涯の苦しみは、外的迫害よりも、内情的に授受する相手がいないことでした。人間の心配は今受けて聞いてあげなくてはならないのであり、イエス様のために命を懸けるという弟子もいたけれども、イエス様の願いと心情の内情を知ろうとする者が一人もいませんでした。このマリヤという女はイエス様の秘密を知って痛哭(つうこく)しながら、もうイエス様の行く道は十字架の路程しかないことを実感して、自分の命までささげても惜しくないくらいの心情になりました。イエス様の死も、この女によって慰められたと思います。

 十字架につけられて三日目の朝早くに、墓場の前に走っていったこの女の心情を見て、イエス様は地上にまた復活したと思うのです。このマリヤは、だれよりもみ言によってイエス様の心情を実感することができたのを見た時に、私たちも本当に愛に結ばれれば、言葉なしでも通ずるということを知らないから、ただ外的に事務的に走ったことばかりお互いに話しながらも、今もっている自分と授受する友達と会うことができない、そういう人と交わることができない私であることを本当に知った時に、自分も悲しい立場に立っている私たちであることを知りました。

 本当に私たちは、「食口(シック)、食口」と言いながらも、お互いに仕事をやる食口となっているけれども、お互いに未来に向かって信仰する食口となっているけれども、過ぎ去ったみ言に因縁のあった動機をもっている私たちであるけれども、現在という今に永遠性をかけて、永遠に残るべき心情と心情との授受する情的に一体となった関係を結ぶことが、本当に難しいことを感じます。今まで暮らしながら何をしてきたか、兄弟と交わる時に何の内容を自分の情に結んできたかということを、本当に悔しい時間を費やしたことを悔い改めなければならないと、もう一遍悟りました。

 どうかみ言を受肉して、言葉なしにでも情的に結ばれて授受して、永遠性の実体と実体をお互いに結んで、永遠なる神様をこの私たちの実体の上に現したい、神様を現世に再臨させることができますように。

 この終末において私たちは、この価値を反省して勝利しなくてはならないあなたの希望の子女だということを、本当に実感して、成し遂げるような力を与え、知恵を与えてくださらんことを切にお願いしながら、主のみ名をもってお祈りいたします。アーメン。

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 次回は、「マリヤの不信仰」をお届けします。


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