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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(120)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
八、悔い改めた時は出発した時と同じ

▲金元弼先生

七たびを七十倍するまでに許す

 イエス様には12人の弟子がいました。その第一弟子のペテロがイエス様に、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」と質問した時に、イエス様は、「七たびを七十倍するまでにしなさい」と言われました(マタイ182122)。ということは、完全に許しなさいということです。結局はみな許し、何遍でも許しなさいということです。その人が神に喜ばれる人になるまで、何十遍、何百遍でも許してあげなさいということなのです。

 そう言われた時に、ペテロはどういうふうに考えたでしょうか。どういうふうに考えたと思いますか。何遍許したらよいでしょうかと聞いたペテロは、「七たびを七十倍するまでにしなさい」という答えを聞いた時、あまりにもけた違いなので、呆然(ぼうぜん)としたのです。ピンと来なかったのです。メシヤのみ言(ことば)ですから、限りなく許さなければならないのだとペテロは考えたけれども、それ以上は考えられなかったのです。

 それ以上は考えられなかったとは、どういうことでしょうか。イエス様がペテロに対して、「七たびを七十倍するまでにしなさい」と言うからには、イエス様にも、許し難い怨讐があって、そういう怨讐を、七を七十倍する以上許した世界があったということを、ペテロは考えなかったのです。

 皆さんもそうでしょう。皆さんが私に、「Aさんが私をいじめます。どうしたらよいでしょうか」と尋ねた時に、「永遠にその人を許しなさい」と答えたとすると、皆さんは私に対してどう考えますか。えらいことを言うなあと考えるでしょう。「ああ、許さなければいけない、そのように許さなければいけないかなあ」と、そう考えるでしょう。それ以上のことは考えないと思います。

 ところがイエス様がそのようなみ言を下さったからには、イエス様にそういったような過去、現在の内的世界があったのです。しかし、私たちは、それを知ろうとしないのです。イエス様御自身、そのような世界に悩まれ、そして勝利された世界があったからこそ、ペテロにそう言われたのです。イエス様は勝利したからこそ、そう言いきれたのです。

 皆さん、イエス様は、いつ許したのでしょうか。考えてみてください。イエス様にとって本当に許し難い事件とは、どんなものがあったのでしょうか。マリヤがそうでした。ヨセフがそうでした。兄弟がそうでした。洗礼ヨハネもそうでした。イスラエルがそうでした。理解できますか。神の前に、メシヤを証して、そして否定していった洗礼ヨハネは、イエス様の前にあっては怨讐の中の怨讐であったのです。個人的に考えればそうではないのですが、神のみ旨を中心としたときには、そう考えざるを得ないのです。

 人々の前で、イエス様をメシヤだと証しながら、あとでイエス様を疑ったのです。そして弟子を遣わして、「本当に、あなたは来たるべきメシヤなのですか」と質問した洗礼ヨハネは、神のみ旨を中心として見れば、本当に許し難い、怨讐中の怨讐であったのです。メシヤが十字架につかれたその遠因は、洗礼ヨハネだったのです。

 マリヤは、自分が生んだ方がメシヤである、人類のメシヤであることを、よく御存じでした。イエス様は、そのマリヤを怨讐とは考えなかったのです。許したのです。ユダという弟子を考えてみなさい。イエス様を売ったユダに出会った時に、イエス様から離れ、イエス様を売るような兆候が前からあったのです。ですからイエス様は、何度も話してあげたのです。こうしてはいけないと教えてあげたのです。それをユダは聞き入れなかったのです。そういう期間を通じてサタンと手を結んでいったのです。

 しかし、メシヤは、そういうことをすべて許してあげたのです。そればかりでなく、愛したのです。それぞれの永遠の生命に対して、非常に心配していらっしゃったのです。ですからペテロは、イエス様に「七たびを七十倍するまでにしなさい」と言われたその瞬間に、イエス様のそのような内面の世界を知らなければならなかったのです。そして、こんなふうにして許してくださったイエス様であり、自分の事情よりも大きい事情、自分の心情よりも深い心情、自分の痛みよりも大きな痛みを、イエス様がもっていらっしゃるということを知った時には、自分の心が痛いからといって、「その人を許せない」とは言えないのです。神様も、イエス様もこれを耐え忍んだのに、「どうして私は耐え忍ばないでいられるだろうか」と、こう思うようになるのです。

 ですから皆さん、先生からみ言を受ける時には、先生における過去の内面の世界や、現在の内面の世界において、こうしたことがいつあったのだろうか、今はどのような心の世界なのだろうかと、考えながら聞くのです。
 そうすれば本当に、神様の心に、先生の心に響く、呼応できる私たちになれるでしょう。ですから、今もそうですが、これからたくさんのみ言を学ぶ時には、常にそういうことを考えながら聞かなければなりません。

 原理で学んでいるように、本当にサタンは、少しのすきも与えません。ですから神は、サタンが少しでも未練をもつようなことはされないのです。サタンに、「未練があるならば、やってみなさい」と言うのです。ヨブの信仰を試されたことがありますけれども、サタンの未練があるならば、それをサタンの手に渡してしまいます。渡すのは神の子を苦しませるためではなく、サタンが未練をもたない、そういう完全なる、絶対的な、愛する子女として誇らんがため、たたえんがためであるのです。「見よ、我が子はこうだ」とたたえるためなのです。

 そういうことがありますので、先生がこの復帰の摂理を解いていくには、先生御自身の生活も、アダム家庭や、ノアの家庭や、アブラハムの家庭での摂理を通じて私たちが学んだように、心を少しも緩めることのできない生活の延長であることを、私たちは考えていかねばなりません。

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 次回は、「問題解決は神中心に」をお届けします。


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