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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(118)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
八、悔い改めた時は出発した時と同じ

▲金元弼先生

恵みと試練

 アブラハムは、祭物で失敗しました。しかし、二番目に、イサクを通じて勝利しました。これは祭物を捧げていない立場と同じなのです。一敗して一勝した、ヤコブを通じてもう一勝した、そういうところに立って、初めて祭物の献祭に勝利した立場に立ったのです。

 私たちが神の前で約束したということは、一つの祭物を捧げるのと同じことなのです。私たちはこういうことが分からないので、悔い改めてそれで勝利したと思っていますが、本当は勝利ではありません。5年、7年、10年たっても、結局、行っているところは元の点でしかないのです。ですから常にサタンは、執拗に私たちを神の前に帰そうとしないのです。

 ある人と仲が悪いとします。そういう人を勝利していかなければならない私であると教えられているのですが、なかなか和合ができません。和合ができないから、「あっ、それは悪かった。仲良くしていかなければならない」と悔い改めます。悔い改めた時は、勝利したような気持ちです。

 ところが相手に会うと、お祈りの中で心に決めたようには、なかなかうまくいきません。それでまた、駄目になってしまいます。その原因を追求し、分析し、そしてその原因をとらえて、悔い改め、決意します。そうすると、同じことがまた再現されます。再現された時に勝利して初めて、その人と必ず和合してみせると決意したことが成就していくのです。どんなことでも、同じことが言えます。

 ですから私たちは、普通こういう集会を通じて心霊が上がります。その状態とは、悔い改めて決意したのですから、勝負をつける資格を獲得した時点なのです。相撲をして一敗したとします。それからすぐには勝負しないでしょう。まずその人の一番の長所を知って、これに対して私はどうすればいいかを考え、そして練習します。鍛えて、その次に二番目の勝負をつけるのです。そして勝った時になって初めて、最後の勝負をつける資格を獲得したと言えるのです。例を話したのですが、信仰でもそういうことがあります。その点を十分に考え、知っていかねばならないと思います。

 ですから、恵みがあったのちにサタンの試練があるとは、そういうことなのです。恵みのあとに必ずサタンの試練があるのは、恵みがある前に、私は負けていたということです。ですから、恵みが必要な人間であったということなのです。恵みを受けた立場は、先ほど話したように、象徴的に勝利し得る条件にしかならないのです。

 そして、そのことが必ず再現されます。そこで勝利して、勝負をつける資格を得ることができるのです。ですから、恵みを受けてから試練を勝利した時に、その恵みはそのまま自分のものにはなりません。その恵みが本当に自分のものになるには、もう一度試練に勝利しなければなりません。大抵は、恵みのあとの試練に勝利した時点で、その恵みが自分のものになったような気分になりますが、皆さんは、今説明したことをまず頭に入れておいてください。

 悔い改めたり、感激したりする時は、心が非常に盛り上がります。そうなれば信仰が一段高くなったように考えやすいのですが、高くなったのではなく、高くなる象徴的条件となるのです。それを、考え違いしている人が多いのです。ですから、そういう恵みを得ると、そこで満足しやすいのです。そこで満足してはいけないのです。自分のものには、まだなっていないのですから。

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 次回は、「み言を自分のものにする」をお届けします。


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