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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(114)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
七、生命と愛と理想を懸けて

▲金元弼先生

神の栄光はメシヤ

 今日、「父母の日」を迎えました。しかし、子女に当たる私たちが父母の願う子女として成長していない限り、父母は惨めです。

 親は子女を、自分のためでなく、家庭の中心として、世界の、天宙の中心として完成させたいと願っています。もし、私たちが一個人としての子女として父母に侍るならば、父母の栄光というのは個人的な栄光となるでしょう。何が親の栄光であるかと言うならば、それは親のすべてを相続し得た子女なのです。

 神の栄光は誰かと言えば、メシヤです。メシヤの栄光は、メシヤを慕う子女です。ですからメシヤの栄光を個人的な、ひいては天宙的な栄光として輝かせるためには、我々自身がこうした次元の自分として完成しなければなりません。そうしない限り、天宙的な栄光を帰すことができないのです。天宙的な栄光を見極め、交わした時に、初めて神の栄光は、天宙的な栄光として、メシヤによって満たされるのです。

 私たちは、「父母の日」として、きょうを迎えましたけれども、統一教会の食口ばかりがその日を祝しています。もし、全国民が国を挙げてこの「父母の日」を迎えたとするならば、父母の栄光は国家的なものになるでしょう。こういうことを考えると、全世界の人がこの日を「父母の日」として迎え入れるならば、父母の栄光は天宙的なものになるだろうと思います。

 先生が先生として立つための道のりは、神がすべてであったのです。ですから、先生は牢屋の中にあっても、自分のつらさよりも先に、そのつらい道を歩まれた神のことを思い、いかばかり心が痛かったでしょうと慰めて、少しも自分のことを考えずに、すべて神のことばかり考えられたのです。

 自分のことは許されませんでした。ですから先生は、一番人の嫌がる難しい仕事に従事していかれたのです。というのは、今まで神のみ旨のために苦労したすべての聖人たちも、神のみ旨を成就するための摂理の中にあって、苦労の道を歩みながら死んでいきました。そして、神のみ旨を成就し得ずして恨みをもっていったのです。この人たちが乗り越えられなかった、そういう難しいことを勝利することによって、この人たちの恨みが解かれていくのです。そのような難しい道を導かなければならなかった神の心情、そして、恨みを残して帰った聖人たちを眺める神の恨みを、先生は解放していかなければならないという心情をもっていらっしゃいました。それで、人々が嫌う難しい仕事を、自ら選んで従事していかれたのです。

 私たち個人個人を考えてみても、たくさんの難しい内容をもっています。このような子女を導かなければならない先生の苦しみは、並大抵のものではありません。先生がこの世の人々を導かれるのを見たら、子女をつくることがいかに難しいかが分かると思います。それ以上に先生は、私たちの分からない世界において、いかばかり苦労なさっているかが分かると思います。

 このように私たちを導き給う先生は、私たちが見るように、日本に来られたら休む暇がないのです。先生は、どこへ行っても休まれないのです。なぜなら、先生は、神が行く道をそのとおりに行かれるからです。そして、その神は、先生の中に共にいらっしゃるからです。

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 次回は、「父母の代身としての私」をお届けします。


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