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シリーズ・「宗教」を読み解く 275
キリスト教と日本 54
キリスト教の友愛精神を実践した賀川豊彦

ナビゲーター:石丸 志信

 賀川豊彦がスラム街に飛び込み、貧しき人々の友となったのは、明治学院高等部神学予科を卒業し、新設の神戸神学校に移った在学中のことだった。
 一年して神戸神学校を卒業した後も葺合新川(ふきあいしんかわ)にとどまり、活動を続けていた。

 彼の活動の原動力となったのは、早朝の瞑想(めいそう)から始まる規則正しい修道的生活習慣によって、自らに霊的成長を促していたことだった。
 問題を抱えた街の人々も不思議な魅力を持つ風変わりな青年をいつしか「先生」と呼んで敬意を払うようになった。

 賀川も、無学な人たちに基礎的な勉強を教える教師となった。
 入信者も増えて、日曜日には礼拝を行うまでになった。スラム街に芽生えた賀川の信仰共同体は、後に「イエスの友会」と呼ばれるようになる。

 この期間に、賀川にふさわしい助け手が与えられた。
 町工場で働きながら賀川の礼拝に出席し活動を手伝うようになった芝ハルと19135月に結婚した。


▲賀川豊彦と妻ハル(ウィキペディアより)

 神戸日本基督教会で結婚式を挙げ、すぐ葺合新川に戻ってささやかな披露宴を開き、住人たちに「私はあなた方の女中さんをお嫁に貰いました」(『貧しい人々と賀川豊彦』雨宮栄一・著 新教出版社 2005年)と新婦を紹介している。
 それまでも、それからもハルは賀川の活動を助けただけでなく、幼くして両親を亡くし義母に育てられた豊彦に家庭の温かさを教えた。

 1914年になって賀川は、米国に渡り、プリンストン大学で勉学を始めた。
 彼は、あくまでも葺合新川での救霊・救貧活動を持続発展させるための留学だと位置付けていた。
 賀川は、プリンストン大学で神学の他、生物科学なども学び、米国社会で起こっていることを見聞きした。それが、その後の賀川の活動に大きな示唆を与えることになる。

▲プリンストン大学の学友と共に(ウィキペディアより)

 2年後、プリンストン大学を卒業、神学学士号を取得して帰国。再び神戸での伝道活動と社会活動を始める。
 そして19184月、日本基督教会で按手礼を受け牧師となった賀川は、キリスト教の友愛精神に基づいて、労働組合、生活協同組合、農業協同組合の基となる組合運動を推進していく。
 ただ、共産主義無神論とははっきりと一線を画していた。



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