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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(112)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
七、生命と愛と理想を懸けて

▲金元弼先生

神の苦労を受け入れるメシヤ

 創造理想の中にあって、神はこのように人間を造って、完成するという理想を見せてくださっています。理想の中の人は、神のみ意(こころ)のままに、願うままにすべてを受け入れた人です。ところが創造したのちの人間というのは、神と人とが合わさって、完成していかなければなりませんでした。

 なぜそういうものを与えたかと言うならば、その人が神の子女になるよう、神と同等の位置に立つようにするためであり、創造の能力を与えるため、喜びを感ずる人として立たせようとしたため、といった内容があるのです。しかし、人はそのような期間の中にあって、神の戒めに従うことができずに堕落したのです。

 ですから、人間がもし神の願いにかなって完成した場合、本当に「神の日」、「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」があったのです。しかし、堕落によってすべてを失ってしまいました。ですから、世界というものは、神にとって、全然ないのと同じなのです。人も万物も、そうです。

 4000年という期間は、原理のない、無原理の中で、この原理をつくり給うたように一人のアダムを造る、そういう期間でもありました。4000年にわたる歴史の摂理は、神がいかに人造りが難しい道のりであるかということを現した路程です。この歴史は、失った一人のアダムを造る苦労の記録です。

 造られる人にとっては、神の苦労を受け入れなければなりません。2000年前に現れたメシヤは、4000年の間、アダムを造るための、すべての神の苦労を受け入れられるアダムになってこそ、初めてメシヤとして立たせられるのです。それでもそのメシヤは、アダム一人だけではいけないのです。そのアダムはエバを迎えて、神がアダムを造らんがためにすべてを尽くしたように、そういう心でエバを造らなければならないのです。

 すべては、神がこういう道を歩んでこられたのですから、神を慕う人は、神がたどられた道のりをそのとおりに歩いていくのです。そして、アダムはエバを迎え、アダムとエバが力を合わせて、子女をつくらなければなりません。子女をつくるというのは、神が人を造り給う、そういう苦労の道をたどっていかなければならないということです。

 神は、人造りの時は、もちろん本当に喜んで、愛の心で造られたのでした。しかし、堕落した人を再び造り給う、その道のりは、血と汗と涙を流す、非常にみじめな道であったのです。神は、この人造りの仕事を絶えず行って、2000年という歴史を通じながら、また一人のアダムを探し求め、造り給うたのです。

 ですから、再び来られるメシヤは、神が人造りの苦労をなさった、そういう苦労を十分に受け入れる人であり、自分というものが全然許されない、神のすべてを受け入れなければならない、そういう道のりを歩まなければならないのです。

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 次回は、「神のみを愛するメシヤ」をお届けします。


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