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文鮮明師自叙伝に学ぶ~心の書写 9

神様を愛する

 アプリで読む光言社書籍シリーズ第3弾、『文鮮明師自叙伝に学ぶ~心の書写』を毎週木曜日配信(予定)でお届けしています。なお、この記事に記載されている「自叙伝『平和を愛する世界人として』」のページ数は創芸社出版のものです。

浅川 勇男・著

(光言社・刊『心の書写~文鮮明師自叙伝に学ぶ~』より)

【第三章】神様を愛する

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 神様を愛することにより、私の人生は完全に変わりました。自分よりも人類をもっと愛し、私と私の家族の問題より人類の苦痛を先に考える人になったのです。また、神様がつくられたすべてのものを愛そうと努力しました。山にある木も愛し、水にいる魚も愛する心で見ました。世の中のすべてのものから神様のみ手を感じようと、触覚を鋭敏にしました。

 そのように、心を神様の愛に合わせて変える一方、使命を果たそうと、私が備えるべき強健な体をつくるために努力しました。いつ、いかなる時に神様が私を呼ばれても、即座に走っていく準備をしたのです。(『平和を愛する世界人として~文鮮明自叙伝』327~328ページ)

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神様を愛する
 人間は誰しも幸福を求めて生きています。では、どうしたら幸福になることができるでしょうか。健康やお金も幸福の条件ですが、何といっても幸福の素(もと)は、「愛」です。人は愛することと、愛されることで幸福になるのです。

 では、誰を一番愛したら幸福になれるでしょうか? 「あなたにとって最も大切なものは何ですか?」と聞かれたら、即座に何と答えますか?

 一般的には、人が最も大切にし、愛しているもの、それは自分自身ではないでしょうか。自分の健康、自分の老後、自分の生活、自分の容姿、自分の生きがい、すべては自分です。人が写真を見れば、まず自分の姿を探します。自分がよく写っていなければがっかりします。どんなに両隣の人がかわいくきれいに写っていても、満足できません。

 さらに愛しているのは、自分の家族です。もちろん、自分よりも家族を愛している人もいます。

 あるお母さんが、保育園から電話があって、「園バスが事故に遭って園児が重軽傷を負いました」と連絡を受ければ、まず、「私の子供は大丈夫でしたか」と尋ねるでしょう。わが子が無傷であれば、ひとまず安心します。それから他人の子供の心配をするのです。テレビで、外国でテロや戦争で、何人死んだというニュースを聞いても、夕食が喉(のど)を通らないということはありません。自分の家族が、その死傷者の中にいないからです。しかし、わが子の留学先で事件が発生すれば、心配で取り乱します。

 では、自分と自分の家族だけを愛すれば、本当に幸福になれるのでしょうか。

 考えてみると、従来、多くの人が、自分と家族だけのために生きてきました。自分と家族が不幸になることを望む者は、そう多くはいなかったはずです。でも、真の幸福な家庭、真の平和の社会や国、世界ができたでしょうか。ただの一度もできませんでした。やはり不幸な家庭と社会が続いています。どんな時代よりも生活が豊かになったといわれる現代の日本社会で、あなたは本当に幸福ですか?

 文鮮明(ムンソンミョン)先生は、誰よりも、人々の幸福を願い、そのために生涯を捧げてこられた方です。

 幼少の頃より、「人々に幸福をもたらす者になろう」と決意され、豊かな才能がありながらも、科学者の道を歩まず、「人々の流れる涙をぬぐい、心の底に積もった悲しみを吹き払う人」になることを目指して生きてこられました。

 その人生の指針に、「『私さえ幸せに暮らせばよい、私の家庭さえ守ればよい』という言葉は、私の辞書にはありません」とあります。

 では、まず、何を愛したらいいのでしょうか? 文鮮明先生によれば、それが神様なのです。

 では、神様を愛するとは、何をすることなのでしょうか。
 日本では、毎年、年末年始になると、多くの人たちが神社仏閣にお参りに行きます。東京の明治神宮だけでも数百万人の参拝者が詰めかけます。さまざまな願い事の成就を祈願します。家内安全、無病息災、交通安全、安産、良縁、そして受験合格まで祈願します。作家の五木寛之さんは、日本の学生が結構信心深い理由として、合格祈願を挙げています。五木さんが、東京の湯島天神に参拝に行った折、絵馬を見ると、合格志望校で最も多かったのが工学部系の大学だったそうです。「頭のいい学生が信心深い?」と『霊の発見』という本で述べています。

 人は自分の力の限界を感じたりすると、神様の力にすがろうとします。しかし、考えようによっては、自分の願い事の成就のために、神仏を利用しているとも取れます。愛しているのは自分と家族であって、その願いを成就するために、神様にすがっているのです。ある神仏に祈願して、結果が思わしくなかった場合、「あの神様は役に立たない」などと言って、別の神仏を選ぶ人もいます。自分の願い事の成就のために、次から次へと神仏を変えていくことを、信仰道楽と言う人がいます。自分の願い事の成就だけのために、神様と向き合うのは、どうやら神様を愛しているとは言い難いようです。

 では、神様を愛するとは、何をすることなのでしょうか。

 霊山や修道院にこもって、清貧な生活を送り、その生涯を神様に捧げる修道者もいます。確かに、心を神様のみに捧げるという意味では、「神様を愛する」ことにはなります。文鮮明先生も、山や教会で何時間も祈りを捧げられます。神様を慕って、愛する心で、祈り続けて教会の床が涙で濡れることもあったのです。

 「私に取り柄があったとすれば、神を切に求める心、神に向かう切ない愛がそれだったと言えます。……この年になっても、私はただひたすら神の愛だけに命を捧げて生きる愚直な男です」(自叙伝ページ)と言われています。

 しかし、神様とのみ向き合うことが神様を愛することであるなら、文鮮明先生は「平和を愛する世界人」にはならなかったでしょう。自叙伝にも書かれているように、生涯を全世界人類のために捧げておられるのです。(続く)

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 次回は、第三章の「全人類を愛する」をお届けします。


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