日本人のこころ 75
壷井栄『二十四の瞳』

(APTF『真の家庭』296号[20236月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

小豆島の映画村と文学館
 香川県小豆島の観光スポットの一つ「二十四の瞳映画村」は1987年に公開された田中裕子さん主演の映画「二十四の瞳」のオープンセットを活用したテーマパークです。撮影用に建てられた「岬の分教場」と、大正から昭和初期の民家や漁師の家、茶屋、土産物屋などが公開され、作家の壺井栄文学館や、1954年に公開された高峰秀子主演の「二十四の瞳」を主に上映する「ギャラリー松竹座映画館」、また2012年日本アカデミー賞10冠の映画「八日目の蝉」の展示などもあります。

 壷井栄は明治32年、香川県小豆郡坂手村に醤油樽職人の五女として生まれ、内海高等小学校を卒業すると、海漕業に転職した父の手伝いをしながら、都会にいた長兄から送られてくる『少年』『少女』などの雑誌を愛読していました。

▲壷井栄(ウィキペディアより)

おなご先生と12人の子供たち
 小説『二十四の瞳』の舞台は「瀬戸内海べりの一寒村」と書かれ、小豆島とは特定されていませんが、映画化に際し、栄の故郷である小豆島に設定したことから、以後、広くそう思われるようになります。最初は、キリスト教の雑誌『ニュー・エイジ』に連載され、単行本は光文社から、文庫本は新潮社と角川書店から出されています。あらすじを紹介しましょう。

 昭和3年に女学校の師範科を卒業したばかりの大石久子(おなご先生)が、島の岬の分教場に赴任してきます。担当したのは男子5人、女子7人の1年生12人で、「二十四の瞳」の子供たちは若いおなご先生にすぐになつきました。

 当時、島では珍しい自転車に乗り、洋服姿で登校するおなご先生は「ハイカラ」そのもので、古い大人たちからは敬遠され、いじわるされることもありましたが、子供たちはいつもおなご先生の味方でした。

 ところが、子供たちの作った落とし穴に落ちた大石は、アキレス腱を切ってしまい、分教場に通うことができなくなります。おなご先生を一途に慕う子供たちは、遠い道を歩いて見舞いに訪れるなどしたため、村の大人たちも大石に心を開き、態度を改めるようになります。しかし、足の傷は治ったものの自転車に乗ることができず、分教場に通えない大石は本校へ転任していきます。

 5年生になった子供たちは本校に通うようになり、新婚の大石と再会しますが、戦争の時代が生徒たちの暮らしと人生に暗い影を落とすようになります。生活苦に追われた女子は学校をやめて働き、男子は好戦的な雰囲気から兵隊を志願し、大石は彼らの行く末を案じます。

 船乗りの夫と結婚し、3児の母となった大石は、徴兵検査のため来ている教え子たちに出会い、「名誉の戦死など、しなさんな。生きて戻ってくるのよ。」と、声を潜めて伝えます。そして、終戦。

 昭和21年、夫を海戦で、母親も末娘も相次いで亡くした大石は、代用教員として教壇に復帰します。しばらくして、母校の教員になった教え子の呼びかけで、12人のうち消息のわかる6人が集まりました。時代の傷を背負って大人になった教え子たちは、兵隊塚に墓参りをした後、大石を囲んで小学1年生の時に、分教場で一緒に撮った写真を見ます。

 戦場で失明した男性は、一人ひとりの名前を呼びながら写真の顔を指さし、大石は「そう、そうだわ、そうだ」とほほえみながら肩を抱き、女性たちはむせび泣きます。

 本作は反戦映画とされますが、それ以上に先生と生徒、生徒同士の心のつながりの深さに感動します。貧しく苦しかったが、心は満たされていたような時代へのノスタルジーから、繰り返し映画化、テレビドラマ化されたのでしょう。時代や環境は変わっても、人々が求めるものは変わらないことを教えているようです。

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