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日本人のこころ 76
柳田國男『先祖の話』

(APTF『真の家庭』297号[20237月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

子孫の近くに留まる先祖
 民俗学は近代になって成立した学問で、風俗や習慣、伝説、民話、歌謡、生活用具、家屋など古くから民間で伝承されてきた有形、無形の資料から、現在の人々の生活文化を説明しようとするものです。19世紀にヨーロッパで「フォークロア」として生まれ、日本では、その影響を受けながら、柳田國男や折口信夫らによって近代科学として完成されました。江戸時代からの国学の伝統を踏まえながら、フィールドワークを基本にしています。

▲柳田國男(ウィキペディアより)

 柳田國男が終戦前後に出したのが『先祖の話』です。柳田が同書を書いた目的は、日本に古くから伝わって来た「家」を、未来永劫にわたり子孫に引き継いでいくためです。そのため柳田は先祖について語り、先祖に対する信仰は我が国古来の美風で、その先祖を祀ることに祭りの一義的な意味があったことを解明しました。

 家の存続に強くこだわったのは、敗戦前後になって日本の家族制度が変動し、家の連続性がおびやかされつつある中で、戦死した人々を祀るべき家が存続しなくては、英霊も浮かばれないという危機感に迫られたからです。その一部を紹介しましょう。

 「私がこの本の中で力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方には行ってしまわないという信仰が、恐らくは世の初めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである。これがいずれの外来宗教の教理とも、明白に喰い違った重要な点であると思う…」

 「先祖がいつまでもこの国の中に、留まって去らないものと見るか、またはおいおいに経や念仏の効果が現れて、遠く十万億土の彼方へ往ってしまうかによって、先祖祭の目途と方式は違わずにはいられない」

 柳田は、戦後日本の大きな課題が戦死者の鎮魂にあるとし、仏教受容のはるか昔から日本人が持ち続けてきた祖霊に対する信仰の回復を唱えました。仏教が説くように、死者は遠い極楽(浄土)や深い地獄に行くのではなく、家に近い故郷の山に留まり、常に家族を見守っていて、盆や彼岸には家族の元に帰ってくる――というのが民族の固有信仰だと言っています。今の日本人の多くも同じ実感を持っており、外来の仏教も、そうした日本古来の信仰や習俗を取り入れて広まったのです。

 同書で柳田が主張しているのは、日本人の宗教的な感情の本質は血縁への信頼であり、その感情が先祖崇拝を生み、それが先祖を神として祀ることにつながったということです。先祖教ともいうべきものが日本人の宗教の本質で、それは日本人がこの列島で生活を始めたころから変わらないと柳田は考えたのです。途中、インド発・中国経由の仏教の影響で多少の変化は生じたにしても、先祖を神として祀ることは、日本人の宗教意識の本質的な部分として変わることはありませんでした。

 人の死によって肉体は滅びますが、魂はどうなるのか。日本人は古くからその行方に思いを巡らし、亡き人の魂はいつまでもこの土地に留まり、愛しい人や子孫とともに生き、その幸せを見守ってくれると信じるようになりました。自然と共に暮らしてきた縄文人の死生観は、朝には昇り夕には沈む太陽のように循環的なもので、人の命も先祖から子孫へと循環するように感じていたことは、土偶や墓地などの遺跡からも推測できます。

 いくら文明が発達しても、それによって日本人の死生観が極端に変わるとは思えません。民俗学を通して日本民族の深層に脈づく精神性の原点に立ち返れば、私たちは古来の死の文化に目覚めるのではないでしょうか。それが現代人の空虚感や孤独感、愛する人を失った悲しみを癒やし、心の平安につながるのです。

「日本人とは何か」を探究
 柳田國男は明治8年、今の兵庫県神崎郡福崎町の生まれ。幼少期より非凡な記憶力を持ち、19歳で第一高等中学校に進学し、東京帝国大学法科大学政治科(今の東京大学法学部政治学科)卒業後、農商務省に入り、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになります。

 その後、飯田藩出身の柳田家に養子に入り、田山花袋や国木田独歩、島崎藤村ら文学者と交流しますが、大正時代に入ると当時の自然主義や私小説を嫌い、次第に距離を置くようになります。農務官僚から貴族院書記官長になり、戦後、廃止されるまで枢密顧問官などを務め、昭和24年に日本学士院会員になり、26年には文化勲章を受章しています。

 柳田が探究したのは「日本人とは何か」で、文献だけに頼らず、日本各地や当時の外地も調査旅行しました。河童の話などで知られる代表作の『遠野物語』は、岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などの説話集です。土淵村出身の民話蒐集家で小説家の佐々木喜善が語る遠野地方の伝承を、柳田が筆記・編纂して明治43年に出版し、日本民俗学の先駆けと称されるようになります。

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