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信仰と「哲学」118
神と私(2)
悔いること(でも、仕方ないこと)

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 仕方ないことかもしれませんが、もっと早く「本当のこと」が分かっていたらという思いが繰り返し湧いてきます。

 ここでいう「本当のこと」とは、信仰と哲学の道を歩むにおいて、自分のものとし得た(確信した)内容を貫くためには、社会や国家からの批判、妨害があり得るということ、時にはそのことによって死と直面し、対決しなければならないことをしっかりと自覚しなければならなかったということです。

 さらに「本当のこと」として、人間が発する言葉の力や行動の影響力は、この覚悟に比例するものであるということです。
 時代や地域的背景は皆異なりますが、ソクラテス、釈迦(しゃか)、イエス・キリスト、スピノザらが証明しています。

 自分(私)の欠点は、恐怖から逃げようとすることでした。それは当然のことであり「欠点」と言えるようなものではない、との慰めもあろうかと思います。それでも、自分としては納得いかないのです。

 一例を挙げます。
 NHKEテレで『100de名著』という番組があります。
 201812月の放送で、国分巧一郎教授(東工大)がスピノザの「エチカ」を解説しているのですが、その中に次のような文章があります。

 「哲学者とは、真理を追究しつつも、命を奪われないためにはどうすればよいかと常に警戒を怠らずに思索を続ける人間です。真理は必ずしも社会には受け入れられないし、それどころか権力からは往々にして敵視されるのだということを十分に理解しつつ、その上で学問を続けるのが哲学者なのです」

 この内容に触れた時(2018年当時)、哲学者の真理探究の姿勢は真剣でなければならない…程度の解釈が頭の中で行われていました。今の時代にはそぐわない、という思いで文字を負っていたと思います。これが自覚の足りなかった私の欠点です。

 しかし今は違います。昨年の夏、78日に起きた安倍晋三元首相暗殺事件と、その後の家庭連合(旧統一教会)とその関連団体に対する「国家的な圧迫と干渉」の渦中にあって、一つの信条を貫くことがいかに存在を懸けたものであるのかを痛感したのです。
 と、同時にそれが信仰と哲学の道に関わる姿勢として「本当のこと」であることを知ったのです。