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真の父母様の孝情を学ぶ 2
タルレ江の伝説、天の摂理を宿して②

 『ムーンワールド』で連載中のコーナー、「真の父母様の孝情を学ぶ」を隔週日曜日(予定)でお届けします。
 韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁(真のお母様)の自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』からの抜粋をイラストとともにつづるコーナーです。

 今回は、「タルレ江(ガン)の伝説、天の摂理を宿して」(5153ページ)からの抜粋です。

 「お母さん、平安道(ピョンアンド)ってどういう意味?」

 好奇心旺盛だった私は、気になることがあると母の元に走っていき、何でも尋ねました。その都度、母は丁寧に教えてくれました。

 「平安道は、平壌(ピョンヤン)と安州(アンヂユ)から一文字ずつ取って付けた名前よ」

 「どうして一文字ずつ取ったの?」

 「どちらも、大きな街だからよ」

 私の故郷である安州は、昔から軍事的にも政治的にも非常に重要な地域でした。また、広い平野があり、農業が栄えて食糧にも恵まれ、古朝鮮時代から大きな都市を築いていました。母が生まれた定州(チョンヂユ)は、私の夫、文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁の故郷でもあります。そこから南に向かって清川江(チョンチョンガン)を渡ると、すぐに安州です。

 昔、「薩水(サルス)」と呼ばれた清川江は、高句麗(コグリョ)時代に乙支文徳(ウルチムンドク)将軍が隋(ズイ)の大軍を撃破した「薩水大捷(サルステチョプ)」でも有名です。この川を境にして、平安北道(ピョンアンプクト)と平安南道(ピョンアンナムド)に分かれているのです。安州から、北にわずか60数キロ行けば夫の故郷である定州があり、南に75キロ行けば平壌があります。

 父の韓承運(ハン・スンウン/清州韓〈チョンヂユハン〉氏)は、陰暦の19081229日、その平安南道安州郡の大尼面龍興里(テニミョン ヨンフンニ)99番地で、父・韓炳健(ハン・ビョンゴン)と母・崔基炳(チェ・ギビョン)の間に、5人兄弟の長男として生まれました。数えで11歳になる1919年、萬城(マンソン)公立普通学校に入学しています。その学校は4学年の時に中退しましたが、勉強がよくできた父は学びへの情熱を抑え切れず、1923年に私立の育英学校に入学し、1925年に卒業しました。数えで17歳の時でした。

 父は卒業後、教師となり、約10年間、母校の育英学校で子供たちを教え、解放直後の混乱期においても1946年まで、萬城公立普通学校の教頭として働きました。

 私が父と一緒に過ごした期間は、とても短いものでした。しかし、その温厚な人柄と風貌は、私の記憶に深く刻まれています。細やかで慎み深い性格でしたが、がっちりとした体格で、体力も秀でていました。村の人が田んぼの中の大きな岩をどけようと苦労しているのを目にすると、すぐに駆け寄って、ひょいと岩を持ち上げてしまったというほど、力持ちでした。

 キリスト教の信仰に篤かった父は、教員生活と信仰生活に真摯に取り組む中、家を空けることが多くありました。李龍道(イ・ヨンド)の新イエス教で中堅幹部として忙しく過ごし、日本警察からの迫害と監視を受けながらも、ひたすら神様に仕える信仰と心情で生活していました。

 母の洪順愛(ホン・スネ)は、1914年の陰暦222日、平安北道の定州で生まれました。敬虔(けいけん)なキリスト教信者である父・洪唯一(ホン・ユイル)と母・趙元模(チョ・ウォンモ)の間に、一男一女の第一子として、誕生しています。

 祖母の趙元模は、朝鮮時代に裕福で学のあった趙漢俊の直系子孫で、官職を担った人々の住む瓦屋根の家が立ち並んだ村で育ちました。

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 次回は、「深く根を張った木は風に倒されず」をお届けします。


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