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コラム・週刊Blessed Life 256
人類救済の根本精神とは何か?

新海 一朗

 21世紀、現代の世界を考えるとき、大いに参考になる人物がいます。ジョン・F・ケネディもたたえた米沢の藩主、上杉鷹山です。

 鷹山は1751年(宝暦元年)、日向の高鍋藩の藩主、秋月種美の次男として江戸の藩邸で生まれました。実母が早くして亡くなったことから、母方の祖母の元に引き取られて育ちます。

 この祖母(豊姫)が、米沢藩の第4代藩主、上杉綱憲の娘であったことが縁となり、1759年(宝暦9年)、10歳で米沢藩の第8代藩主、上杉重定の養子になり、翌1760年(宝暦10年)8月、重定の世子(世継ぎ)となりました。

 米沢上杉藩の財政が逼迫(ひっぱく)状態にあったために、先代の上杉重定が徳川家への領地返上まで考え悩んだ困難な状態の時に、上杉鷹山は17歳で米沢藩の第9代藩主となったのです。

 鷹山は、米沢藩の財政改革に取り組み、再生のきっかけをつかんで、最終的に偉大な成果を収めたので、江戸時代屈指の名君として知られることとなります。
 1802年(享和2年)、剃髪(ていはつ)して「鷹山」と号するようになりますが、鷹山と号する前までは上杉治憲が通称です。

上杉鷹山(ウィキペディアより)

 上杉鷹山は師匠の細井平洲の教えを経世済民(世を治め民を救う)の実践思想としており、師匠の述べる「根本三ケ条」を実践します。

 その内容は、①入るを量って、出るを制す、②節倹の政の目的は仁(人への思いやり)、③上下、心を和す、の三つの内容であり、非常にシンプルですが、的を射たものです。

 細井平洲の教えを抱き、米沢入りした鷹山は、ぜいたくと浪費の無駄を省く「大倹約令」を出す一方、「人に教えるときは、まず自分のことをよく理解して、清廉潔白で謙虚な気持ちでないと、人は心から尊敬して従うことはない」と述べ、自ら率先し、木綿の着物を着て、生活費を前藩主の7分の1にして生涯を通しました。

 改革推進に当たって、最大の壁となっていた改革派と守旧派の心の壁を、「上下、心を和す」の細井平洲の教えに従って取り除き、藩内でも一致団結の雰囲気が藩士と農民の間に出来上がり、米沢藩には上下において愛と信頼の関係が生み出されました。

 鷹山は、「学問で人を育て、人質(人間の質、教養、徳性)が良くなれば良くなるほど良い国ができる」という強い信念を持って、人間教育に熱心に取り組み、また民が生きるための実学にも力を入れます。こうして藩政は実を結び、改革は成功を果たすのです。

 鷹山の跡を継いだ新藩主の治広に「伝国の辞」を授け、逝去するまで後見し、藩政を実質的に指導します。
 「伝国の辞」が残した家訓は、①国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)のものではない、②領民は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない、③国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、「君主のために存在する国民」ではない、の三カ条でした。

 若き日、米沢藩の改革のために江戸からお国入りした時の鷹山の決意と覚悟の心情、「うけつぎて 国のつかさの 身となれば 忘るまじきは 民の父母」という歌に託した、あの「民を愛し、民を育て、民の父母となる」決意と考え合わせると、鷹山は、愛民の君主、愛民の教育、愛民の父母、すなわち「愛民思想」に生きた聖人です。

 民の父母、国の父母、世界の父母として生きる政治家、経済人、指導者が出てくることを切望します。