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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(90)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
三、理想的な出会い

▲金元弼先生

み言の消化不良

 きょう皆さんは、このベルベディアの聖日礼拝に、「きょうは、どういうお話を聞けるだろう」という期待をもって来られたことと思います。先生がこの場でみ言を語ってくださっていた時には、私も常に、「先生はどういうお話を私たちに聞かせてくださるのだろう」という期待をもって、このベルベディアに来ていました。そのように、常に私たちは、「次は、どういうお話だろう」というふうに考えて、来るのです。

 それ以上に、私自身が先生のみ言を承る立場に立っている時に常に考えたことは、先生の語ってくださったみ言と自分は、どのように一致化しているだろうかということでした。それが成されていないと、それ以上のみ言を理解することがなかなか難しいのです。例えて言えば、み言と一致化できていない自分の状態というものは、食事をしたけれども、自分の体の調子が食べたものを消化できる状態になっていないので、消化不良を起こしてしまうようなものです。そういう状態の中での必要なみ言は、消化できるみ言であって、いかに消化できるかということが問題なのです。

 消化できない状態で、おいしいものをまた食べるというのは、かえって消化を難しくすることではないかと、私はそう考えたのです。それはつまり、「自分自身が本当にみ言を消化できていないことが分かる」ということです。ですから次に受けるみ言により、今まで消化できていなかった自分を消化させ得る者として取り替えていくのです。これが非常に重要であるのです。

 ところで私たちは、おいしい食事──それは先生から頂く霊的な食事のことですが、それを先生から頂いているのですけれども、まだ消化できていないのですね。そういう状態で、またおいしい食事を与えられます。そうすると、おいしいのでまた食べてしまうのです。ところが消化できていないところに、おいしい食事をまた食べるのですから、また消化できません。そしてまた、おいしい先生のみ言を賜ると、おいしくておいしくてたまらないので、また食べたくてしょうがないのです。それで、また食べます。すると、おいしいものをいつも食べていながらも、消化できないので、家に帰ると非常に悩むということが続くようになるのです。皆さんは、そういう体験をしませんか。

 そこで次第に、先生のおいしい食事に招待されても、食事に出ていくのが、非常に怖くなってくるのです。なぜなら、消化できなくて痛いのに、また食べたら、もっと痛くなるだろうということを考えるからです。それを考えると、招待されても行くのが怖いのです。聖日礼拝に参加して先生のみ言を受けるのが怖いのです。何か裁かれるように感じるのです。そういうことを非常に感じるというのは、何を意味するのかというと、消化できないところにおいしい食事をまた食べなければならないので、負担を感じるということなのです。そうではないですか。

 先生のみ言を最初は、「非常に素晴らしい」と言いながらも、何度かみ言を賜るために出て行っていると、いつも裁かれるように感じるようになるのです。そうではないでしょうか。私がこういう話をしているのは、私自身がそうだったということを話しているのです。そこで、先生のみ言と自分をいかに一致化させるかということが、常に私の課題になっているのです。

 私たちは、次々に聞くみ言が消化できないと、み言を聞くのが非常に苦しくなります。だからといって、「(み言を聞きに)行かない」というわけにはいきません。そこで、私たちは先生のみ言を聞くに当たって、常に、自分が消化できていない原因をみ言の中からどんどん見つけ出し、消化させていく方向に切り替えていくようにしなければなりません。これが非常に大事になってくるのです。

 つまり、み言に自分を引き付けていくのではなく、自分にみ言を引き付けて、自分を消化させていくようにしなければならないということです。消化できなくても、どんどん食べるのです。み言をたくさん受けていきながら、それを自分に引き付けて、消化する努力をしなければなりません。

 もし、苦しいからといって食べなくなってしまったら、それは今まで目の見えない人が常に鈴の音を聞いて歩いていたようなものだったのに、その鈴の音が全く消えてしまったという状態になります。いったん鈴の音が消えてしまうと、どこへ行ったらよいのか、行くべき方向を消失してしまうのです。そういうことを考えながら、出会いについて少し考えてみたいと思います。

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 次回は、「神だけを愛する」をお届けします。


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