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心情開拓
心霊を育てる生活原則(88)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

4 復帰歴史に見る生活原理
(1970年1121日)

▲李耀翰先生

【イエスを中心とする路程】
イエス様と洗礼ヨハネ

 第二次には、洗礼ヨハネの団体に現れました。このことは、「原理」には第一次となっていますが、家庭的に失敗して、次には洗礼ヨハネを中心としての摂理に希望をもって行ったのです。イエス様を洗礼ヨハネに、だれが紹介すべきだったかというと、マリヤがイエス様を信じて、それからマリヤのお姉さんがイエス様を信じて、その信仰基台の上で洗礼ヨハネに紹介しなくてはならなかったのです。しかし、そうやらないから、イエス様が一人で洗礼ヨハネの前に現れるのです。それはもう危険です。

 イエス様を家庭的に認めない、ヨハネのお母さんも認めない、家庭的にとても心配している者だということを知ってもいますが、イエス様には違う面が、もちろんあります。使命感に燃えてはいるけれど、どうも家庭的微妙な内容の影響を受けた洗礼ヨハネは、イエス様に会った時に霊界から、「バプテスマを受けよ」という啓示を受けたのですが、どういう意味か知らなかったのです。

 神から愛されている人と愛されていない人がいる時に、メシヤは、かえって神から愛されている人に対して、信仰しにくい態度をとるのです。自分を隠すのです。メシヤは自分が愛されているけれども、結局なんでもないというふりをしたり、また信じようとしても信じられない立場を見せるのです。

 なぜかというと、その人は、その人物より以上に謙遜(けんそん)になって、その秘密を自分で発見しなくてはならないからです。自分が発見して、自分のものにしなくてはならないのです。特に、洗礼ヨハネは相当信仰者だから、もっと隠します。そういう人に、メシヤはもっと自分の態度を隠して、何も知らない顔をして近づくはずなのです。

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 次回は、「大先生と洗礼ヨハネ」をお届けします。


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