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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(86)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
二、祝福の原点

▲金元弼先生

相対者を思いやる心

 皆様は別々に生活しますが、いつか一緒になります。その会った時に、皆さんが祝福を受けた時に神の心情とみ言と一体化したのと、どのくらいの距離があるのか、またはその種があるかどうかを、今から考えてみてほしいのです。その間、どのような次元で愛していたのだろうか、もし最初の基準に比べて距離があるとするならば、どれくらい落ちているのか、と考えてほしいのです。

 家庭をもっている人は、どうでしょうか。朝、お祈りして出発しますが、朝出発した時と帰ってきた時と比べて、どのくらい高められた立場で相対者と会っているのか、追求しなければいけません。み言と心情を中心として真の親の心情と一体化していた時と比べたら、帰ってきた時には、熾烈(しれつ)な闘いをしていないと、高まった立場に立てません。

 祝福を受けて出発した時の一体化した基準と、今の基準とを比べて、どれくらい高まっていますか、低くなっているのですか。

 私はソウルで家族と一緒にいる時には、朝出て、夜帰ってから子供に会い、相対者に会うというのは、何も難しいことではないと考えていました。しかし、先生のみ言、先生の御家庭の生活を見るときに、相対者や子供に会うということがどんなに難しいものであるかを、一つ一つ実感してまいりました。

 神と世界とこの国のために私たちが仕事をし、本当に尽くしたならば、問題はありません。けれども、先生が言われるほどに私たちは尽くしていないし、やってもあまりできないまま家に帰って、相対者や子供に会うのは大変難しいということを実感しました。相対者と神と真の父母の前で、「真の親の心情と一体化し、力を合わせて神と真の親と共にやりましょう」と誓って出発したのに、私がその約束を果たしていない立場で相対者に会おうとした時には、相対者に会うのが非常につらく、難しかったのです。神の道を良く歩めず、責任を果たし得ないで家に帰った私でも、相対者は考えて、本当に喜んで迎えてくれました。子供たちも、自分の希望のように迎えてくれました。そういう時に、私は良心の呵責を感じて、恥ずかしくなったのです。

 私たちはお互いが会う時に、どういうことを考えなければいけないでしょうか。相対者は、いろいろなことをして帰ってきて、私と会うのです。悲しいことや恵みの時や、悩み事もあって帰ってくるのです。ですから、相手がきょうも難しい神のみ言を実践して、難しいことや喜びや悩んだこともあったことだろうと、相手のことを思いやる心をもつことは、非常に大切なことだと思います。そうしたら、サタンにいくら反対されても、よく闘って勝利していくことができます。

 家庭をもっている人は、一日の中で難しいことが起きても、相対者を迎えて、相対者の慰めの一言で、すべてを忘れようとするのです。それが婦人の立場です。

 男の人は、外に出てメンバーたちのことを見てやったり、難しいことを指導してやったりします。それを勝利して家に帰ると、相対者によって慰めを受けたいという心が残っています。それにもかかわらず、いろいろと難しいことを先に言われると、気持ちがかーっとなってしまって、なかなかうまくいかない時があります。

 「外に行けば勝利するけれども、家に帰って負ける」という話があります。私たちは、外に出て勝利します。それは、サタンが負けたということなのです。サタンは、負けて黙ってはいません。私よりも先に、私の家に帰って私の家内、子供を通してアタックしてくるのです。

 荒野での闘いで負けたサタンは、それで終わったのではなく、イエス様に一番近い弟子を通して、イエス様にアタックしてきたことを考えてください。サタンは、私にアタックして負けたら、私に一番近い人にまで後退します。そしてそこで負けたら、その人の次に近い人にアタックしていきます。どんどん後退していっても、逃げ去ってはいません。

 そこで、常に家庭を通してアタックしてくるサタンに、どのようにして勝利できるかといえば、自己中心的にとらえないようにすることです。自己中心的にとらえないということは、どのようにすることでしょうか。

 自分の家に帰ってくる時に、自分が奥さんから慰めを受けようとしないで、かえって、家の中で、奥さん一人で難しいことがあっただろうと考えて、その苦労したことに対して、一言でもみ言を与えて、よく慰めてあげることです。奥さんを中心として考えて、することです。

 その次に、家にいる奥さんは、どのようにしたらサタンのアタックする利用物とならないで済むのでしょうか。奥さんは、一日のうちに難しいことがあったとしても、主体者は社会に出てたくさんの人に会って難しいことがあったことだろう、そしてそれを勝利してきたのだと考えながら、「きょうはどんなことがありましたか。難しいことはありませんでしたか」と、かえって主体者のことを思いやることです。自己中心的に、私に何かおみやげを持ってきたのではないか、何か良いことを言ってくれるのではないかと期待しないで、思いやることです。

 自己中心的ということは、サタンが一番喜ぶことです。私たちが家に帰って、妻が難しいことを言ったり、子供がいろいろと気になったり、子供が親の心をなかなか分かってくれなかったりするとします。そういうときには、自分が神の前で果たさなければならないことを十分にできなかったがゆえに、そういう結果になったと考えてほしいのです。あるいは、神と先生のみ言から外れて、まずいことをしたからこうなったと考えてください。

 「気をつけなさいと言ったのに、お前はなぜ病気になったのか、私があんなに気をつけなさいと言ったのに、なぜそうしなかったのか」というように原因を他に求めるのではなく、私が間違ったがゆえに、神は心配なことを起こすことで、私に「お前が間違っているのだ。お前が熱心にやらなければならない」ということを、家庭の一員を通して教えてくださっているのだと受け取るのです。

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 次回は、「問題の発生は一体化への警告」をお届けします。


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