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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(85)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
二、祝福の原点

▲金元弼先生

神中心の愛で祝福を取り戻す

 アダムとエバのことを考えてみましょう。アダムとエバは神から最初の祝福を受けました。しかしながら、アダムとエバは祝福を完成して、神に祝福を返すことができませんでした。というのは、アダムとエバは祝福された時の神の心情、神のみ意(こころ)を忘れたからです。神との約束のみ言を忘れたのでした。

 アダムとエバにとっては、み言を守りさえすれば、自動的に祝福されるようになっていました。しかし、守ることができなかったので、祝福を受けられませんでした。では、その祝福は、誰がもって行ったのでしょうか。それはサタンでした。

 私たちは、その祝福を、どこへ行って取り戻さなければならないでしょうか。サタン世界へ行って、サタンから取り戻さなければなりません。どのようにしたら取り戻せるのですか。それは、アダムとエバがどのようにして神の祝福を失ったか、その原因を知ることにより、いかにしたら祝福を取り戻せるかが分かるのです。

 アダムとエバが天使長の誘惑に遭った時に、自己中心的でなく、神を中心として考えたとするならば、その誘惑を取り除くことができたはずです。しかし、自己中心的に考え、愛してしまったのです。アダムとエバが神を中心として考えるならば、神がみ言を下さったのだから、そのみ言を中心として神に聞けば、これを取り除くことができたはずです。

 そういうふうに聞いてきたなら、神は、「分からない」というようには答えられません。答えなければなりません。人間が神に聞くというところまでは、人間の責任分担です。

 天使長とエバとの関係、その天使長と一体化したエバとアダムの関係は、全部自己中心の愛から生じたということを忘れてはいけません。天使長が愛の減少感を感じたということは、それ自体は罪ではありません。人は比較能力がありますから、自分が愛したり、人が愛したりするときに、愛の減少感を感じるというのは、自然なことです。

 天使長が愛の減少感を感じた時に、天使長は自分だけ感じていると思ったのです。ところが、神も感じていたことが分からなかったのでした。神が愛の減少感を感じたということは、皆様もなかなか理解し難いと思います。それについて話してみましょう。

 神は人間を造る前には天使長を愛し、天使長は神を愛していました。ところが、人間が成長すると、天使長に対する愛に変わりはないのですが、天使長は愛の減少感を感じたのです。天使長が愛の減少感を感じた時に、天使長の神に向けての愛は、愛の減少感を感ずる前に神に返していた愛と、愛の減少感を感じたのちの神に対する愛の心は異なっていました。以前に100を返していたとすれば、その時は70くらいだとします。すると、神は100を与えたけれども、70しか返ってこないとすれば、30だけ、神は愛の減少感を感じたというのです。

 皆さんが相対者を100愛したけれども、相対者から70しか返ってこないときに、返ってこない分だけ寂しさを感じるのです。ですから、天使長が愛の減少感を感じた時に、神も天使長から愛の減少感を感じたということが理解できると思います。

 天使長は、自分だけが愛の減少感を感じているのであって、神はそんなことはない、私だけがこのように寂しいのだと考えたのです。もし天使長が神を中心として考えていたら、「私が愛の減少感を感じている時に、神は私によって愛の減少感を感じているのだ。私が感じたことを、神も感じていらっしゃる」と考えるはずです。そうすれば天使長は、エバに対する堕落行為をすることができなかったはずです。

 しかし天使長は、自分を中心として愛の減少感をエバのところに持ち込んでいったのでした。愛は一体となることを意味し、一体化すると、相手の要素と一つになって、そのまま受け取るようになります。それで自己中心的な愛は、エバにも生じてきたのです。エバとアダムが一体となることによって、アダムも自己中心の愛に落ちていったのでした。

 もしサタンの世界、堕落世界で自己中心的ではなく、神中心的な愛を行うとすれば、堕落世界は既に、復帰の世界として変わっています。そうすれば、サタンもサタンになれません。サタンは、神中心的な愛の前に、終わるのです。

 私たちは、自己中心的な愛ではなく、神中心的な愛によってこそ、サタンによって奪われた祝福を取り戻すことができます。それが唯一の道です。

 私たちが真の親のもとで祝福を受けるに当たって、四つの誓いがあります。それによって、祝福が永遠に私たちの祝福として残るのです。神のみ言を守り、一体化すれば、その祝福は、決定的な祝福となります。それができないときには、自分の祝福とはならないのです。

 私たちの祝福は、私たちが完成した段階での祝福ではなく、完成を目指しての、途中にあっての祝福なのですから。完成はしていないけれども、心情的に先生のみ言と一体化したという条件のもとに、祝福を受けているのです。ですから私たちには、「実体的に勝利しなければならない」という課題が残っているのです。

 そして、私たちは、神を中心とする真の親の心情とみ旨と一体化して、一つになるのだという最初の心を、いつも保っていなければなりません。

 私たちの祝福の場合、36家庭の祝福は、これこれこうだという説明もなく、急に行われました。私たちは、祝福、結婚というものはないと思っていました。そういうことですから、祝福を受ける時にも、先生のみ言を聞くには聞くのですが、大変興奮しており、み言を一つ一つ書きつけていて、先生を見ることもできませんでした。

 私が今、こういう話をしているのも、最初、先生が私たちに下さったみ言を、皆さんがよく読みこなしてほしいと思うからです。

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 次回は、「相対者を思いやる心」をお届けします。


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