コラム・週刊Blessed Life 23
進化論か創造論(目的論)か

新海 一朗(コラムニスト)

 進化と創造の議論において、しばしばキリンが持ち出されます。

 ダーウィンの進化論によれば、キリンの先祖は首が長くなかったそうで、突然変異により、首の短いもの、長いもの、いろいろバラツキがあった。その中で、首の長いものは木の葉を上から下まで食べることができたが、首の短いものは下の方しか食べることができなかった。従って、生存競争によって、首の長いものは生き延び、首の短いものは滅んでいった。そのような生存競争を代々続けているうちに、首の短かったキリンの先祖は今のように首の長いキリンに進化したのだというのです。

 しかし、アフリカのサバンナの草原に住む動物たちは、例えば、アカシヤの葉っぱを食べるとき、上の方の高い所をキリンが食べ、その下の方をジェレヌク、さらにその下の方をインパラ、そして一番低い所をキルクディクディクが食べるというように、それぞれの高さに応じて、アカシヤの葉を分け合って食べています。これが何を意味するかと言えば、キリンは元々首が長かった、その理由は高い所の葉っぱを食べることができるように、そのようにキリンの首は初めから長く設計されているからだということになります。

 目的論を欠くと、物事を全て進化論的に説明しなければならなくなりますが、現在、人類社会全体が良くなるための究極の目的論が見失われているために、人々は、進化論的思考、すなわち、適者生存(survival of the fittest)とか、自然選択(natural selection)とか、そういう考えを社会進化論のかたちで人間社会の事象においても受け入れています。しかし、余程、無目的に生きている人でない限り、何らかの目的を中心として人々は行動しているわけですから、全ての存在において、目的をもってデザインを描く存在が必要なことが分かります。

 結局のところ、宇宙の究極存在が設計した人類の究極目的を見いだす以外に、真の平和を実現する道はないでしょう。人間を創造された神の創造目的に帰着する時、人類は共に生きることができるようになるでしょう。