信仰と「哲学」3
「哲学」の始まり~共産主義思想との出合い

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 悩みの淵にあった高校2年の春、私は、学校の帰りに足を延ばして、普段はあまり行くことのないE書店に立ち寄りました(確認したら今も存在するとのことでした)。そこで目に留まったのが『歴史と人間』(柳田謙十郎著、文理書院)というハードカバーの本でした(定価は250円 初版は1960年)。 

 私が最初に接触した哲学、思想は、共産主義だったのです。
 その本に記されていたのは、「唯物史観」でした。人類歴史には科学的な客観法則があり、人間の意思で変えることができない法則が存在するというのです。その本は、日本の歴史についても説明しており、当然、日本も社会主義、共産主義社会実現に向かっており、必然であるというのです。「いかに生きていくべきか」を考えていた私にとって、引かれるものがありました。宗教を観念論として厳しく批判する内容も記されていました。

 私の家は、仏教・曹洞宗。ある時、こんなことがありました。高校の古文の先生がお坊さんだったこともあって、期末試験の用紙に回答ではなく、自分の今考えていること(何のために生きているのかを知りたいということ)を記して提出したのです。試験用紙が零点で帰ってくるのは分かっていたのですが、そこに先生の言葉が記されているはず。それを確認することが目的でした。ところが返ってきた試験用紙には、(確か赤い文字で)「今はそのようなことを考える時ではない。勉強に専念すべき時」という意味の言葉が記されていました。先生の答えを、それほど期待をしていたわけでもなかったのですが、やはり落胆しました。

 そんな時に出合ったのが、共産主義思想だったのです。
 歴史は共産主義社会実現に向かっている。それは科学的客観的法則で人間がその法則を変えることなどできない。であれば、私が、共産主義社会実現のために関わっていくことが、「いかに生きるべきか」の「答え」になると思ったのです。

 クラス担任の先生であるN氏が日本教職員組合(日教組)に関わっていたこともあり、誘われて日本社会党(現在社会民主党)や日本共産党系の講演会などに時々参加するようになりました。そして入試を経て、大学の哲学科に進むことになったのです。(続く)