信仰と「哲学」2
「哲学」の始まり~哲学は死の練習 

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 死と哲学について、触れておきたいことがあります。
 ギリシャの哲学者プラトンは著書『パイドン』の中で、ソクラテスの言葉を用いて「哲学は死の練習」であると述べています。

 以下、その部分です。
 「哲学者は死を恐れない。死とは魂と肉体との分離であり、哲学者は魂そのものになること、すなわち死ぬことの練習をしているものだから」。

 絶望から死を考えた高校生時代、私は、悩みの淵から解放されるためには何が必要なのか全く分かりませんでした。それでも、大学進学で科目の選択が迫られる中で、迷いもなく「哲学科」と書き留めました。見えない力のようなものに押されていたのでしょう。

 「死の練習」が哲学であるということから、もう一つ、ぜひ紹介したいことがあります。
 加賀乙彦(かが・おとひこ)氏の著作『宣告』(新潮社)に出てくる死刑囚のモデルとなった人物の母への手紙、それも死刑執行日の前日から執行2時間前までに、母親に向けて書かれた手紙です。
 彼は獄中にあって死刑が確定する中、哲学書や宗教書を読みあさり、キリスト教の洗礼を受けています。そして多くの文書を残しました。

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1969128
おかあさん
暖かい晩ですね。
きょうはひょっとしたら東京に泊まるかとか言っていたけれど、とにかく、あまりに悲しまずに体に悪いことは気をつけて、よくやすむようにしてください。
ほんとに思いがけないことになってしまい、(むろん、そして一方ではじゅうぶんソノタの用意はしてきてはいたけれど)おかあさんに最後の、そして最大の親不孝をしてしまい、ほんとうにすみません。
おかあさんは、よくしてくださいましたね。ありがとう。
M先生のおっしゃるように、ぼくはおかあさんによって<神の愛>を知った、と思います。まだまだ努力がたりなくて、それに書きたいことや、考えて深めたいことも多くあって、そのうえなによりおかあさんはじめ皆さんと別れるのはつらいけど、しかしこの与えられた<時>は絶対的な意味をもっており、ただ、耐えつつ、受け入れる以外にはありません。
(略)
おわびのしるしに、天国に行ったら、きっとおかあさんのために山ほど祈り、守ってあげますね。だから、おかあさん、もう泣くのはやめなさい・・・・
(略)
さあ、おかあさん、七時です。あと一時間で出立する由なので、そろそろペンをおかねばなりません。
僕の大好きなおかあさん、やさしいおかあさん、いいおかあさん、愛に満ちた、ほんとにすばらしいおかあさん、世界一のおかあさん、
さようなら!
でもまたすぐ会いましょうね。だからあまり泣かぬように。
さようなら、百万べんも、さようなら!
(髪の毛とツメを同封します。これだけでよかった?)
今こそ、ぼくはおかあさんのすぐそば、いや、ふところの中ですよ、おかあさん!!
(中島義道著『哲学の教科書』、講談社学術文庫より)

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 手紙の一部分です。死の練習、魂(霊)になる準備とは何かを考えさせられます。(続く)