信仰と「哲学」1
「哲学」の始まり 

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 AI(人工知能)、ロボットが人間の代わりに考え、働く。この「進歩」は広く深くなり、人間と社会、世界の在り方を大きく変えていくことになるでしょう。その結果、「私(人間)とは何か」、「私はどのように生きたらいいのか」など、AIと人間の違いは何かを自問するようになるのは避けられません。
 かつては戦争の惨禍や自然が猛威を振るう中で、それに抗(あらが)えない人間の弱さや儚(はかな)さに直面して自問したことが、ある意味では、より深刻な問いとして今日、全ての人々に迫ってくるのです。

悩みの淵に
 「私に欠けているのは、私は何をなすべきか、ということについて私自身に決心がつかないでいることなのだ・・・私の使命を理解することが問題なのだ・・・私にとって真理であるような真理、私がそれのために生き、死にたいと思うようなイデー(理念)を発見することが必要なのだ。いわゆる客観的真理などを探しだしてみたところで、それが私の何の役に立つのだろう」(『キルケゴールの日記』より)

 キルケゴール(デンマーク、18131855年)のこの言葉は、私にとって核心に迫る響きを持っています。信仰の道へと進むようになってからも変わりません。

 私にとって「哲学」の始まりは、高校1年生から2年生に至る絶望の日々からでした。背景にあるのは自分の「欲」の強さです。他人に負けることが嫌いでした。しかし「負けずに生きる」ことなど不可能なことです。足の速い人もいるし、格好のいい人もいます。全てにおいて負けずに生きることなど不可能なのです。

 そこに生きることのつらさや苦しみを感じ、自分は一体何のために生きるのだろう。最も価値ある、意義深い人生などあるのだろうか。もし「本当の生き方」「価値ある生き方」があるとすれば、それが分からないのに明日が来る、そして明後日が・・・ということが、とても耐えられないと考えるようになっていきました。
 勉強に集中できず、学校に行くのも嫌になり、一日中ギターを弾いて時間をつぶす、そんな日々が続いたのです。死についても考えました。(続く)