シリーズ・「宗教」を読み解く 244
キリスト教と日本㉓
日本に一人もキリシタンが存在できない時代

ナビゲーター:石丸 志信

 徳川家康が将軍職を秀忠に譲り大御所となり、親子で幕藩体制を固めていく中、禁教令が出された。
 当時の日本の人口は推定で1500万人。その中でキリシタンの数は、およそ40万人から60万人といわれている。

 日本国内にかなりの影響を与えるようになったキリスト教に対して、警戒する動きが見られ、秀吉の時代とは比べられない厳しいキリシタン迫害の時代となった。
 そして、元和の大殉教以降40年間にわたっておよそ3000人のキリシタンが殉教を遂げていく。

 初めはただキリシタンであるが故に殺されたが、1630年頃からは棄教を迫る厳しい拷問に屈しない者たちが殉教していった。
 その後、各藩で弾圧政策が取られるようになり全国に及んだ。17世紀半ばからはキリシタン検索制度が徹底され、国内に一人もキリシタンが存在できない時代に入っていった。

 検索制度には、訴人(そにん)褒賞制度、五人組連座制、絵踏(えぶ)み、寺請制度と宗門人別改(しゅうもんにんべつあらため)制度などがあった。
 訴人褒賞制度は、1618年に長崎で「盗賊・放火犯を訴え出た者に『嘱託銀』を与える」と公示したことに始まるが、翌年、ここに「伴天連(バテレン)」が追加された。

▲踏み絵を踏む様子(ウィキペディアより)

 当初銀100枚だった褒賞が1682年には銀500枚に増額した。五人組連座制は5戸一組の監視システムで組内からキリシタンが出れば連帯責任を負わせる仕組み。
 絵踏みは長崎地方でのみ制度化され、キリシタンでないことの証しとして聖画像などを踏ませるものだが、時代と共に正月の恒例行事となっていった。

 1630年より戸籍に当たる人別帳に宗旨と檀那寺(だんなでら)を加えた宗門人別帳が作られるようになり、住民は必ず寺の檀家(だんか)でなければならなくなった。そこで檀家がキリシタンでないことを、各寺が監視、保証する寺請制度ができた。

 また、類族改(るいぞくあらため)制度も作られた。キリシタンであった本人とその親族直系の子孫を記録し、7代にわたって、生まれてから死ぬまで監視する制度だった。
 しかし、このようなキリシタンに対する徹底した弾圧政策の下にあっても密かに信仰伝統を守り抜く人々も存在した。それは250年近くを経た幕末に明らかになる。


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