愛の知恵袋 19
人の痛みを感じる心

(APTF『真の家庭』129号[7月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

服装の汚い少年
 その先生が5年生の担任になった時、生徒の中に一人、服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。先生は中間記録に少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。

 ある時、少年の1年生からの記録が目に留まった。

 「朗らかで友達が好きで、人にも親切、勉強もよくでき将来が楽しみ」とある。

 「…間違いだ。他の子の記録に違いない」と思った。

 2年生の記録を見ると、「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と書かれていた。

 3年生では、「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」。さらに後半の記録には、「母親が死亡、希望を失い、悲しんでいる」とあり、4年生になると、「父親は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう」とあった。

 読んだ瞬間、先生の胸に激しい痛みが走った。ダメと決めつけていた子が、突然、深い悲しみを背負って生きている生身の人間として自分の前に立ち現れてきたのだ。

ああ、お母さんの匂い
 放課後、先生は少年に声をかけた。

 「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない? 分からないところは教えてあげるから」。少年は初めて笑顔を見せた。

 それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。少年は自信を持ち始めていた。

 クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。あとで開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。

 先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。「ああ、お母さんの匂い! きょうはすてきなクリスマスだ」。

先生は僕のお母さん
 6年生では、先生はこの少年の担任ではなくなった。卒業の時、少年から先生に1枚のカードが届いた。

 「先生は僕のお母さんのようです。そして、いままで出会った中で一番すばらしい先生でした」

 それから6年。またカードが届いた。

 「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」

 10年を経て、またカードがきた。

 そこには、先生と出会えたことへの感謝と、父親に叩かれた体験があるから患者の痛みが分かる医者になれると記され、こう締めくくられていた。

 「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます。大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、5年生の時に担任してくださった先生です」

 そして1年。届いたカードは結婚式の招待状だった。

 「母の席に座ってください」と一行、書き添えられていた。

 (月刊「致知」200512月号鈴木秀子氏連載文より)

“思いやり”まず目の前の人に
 “愛”という世界には、様々な要素が含まれていますが、その中でも最も大切な要素は、相手の心の痛みを見抜き、それを感じとり、癒してあげようとする衝動ではないでしょうか。

 マザー・テレサがインドの道ばたで、誰も振り向こうとせず見捨てられて死を待つ人の姿を見たとき、それを放っておけず、我知らず抱いていこうとした衝動。それこそが愛に他ならない。それはまた、「何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもその通りにせよ」と言われたイエスの教えでもありました。

 かつて、孔子に弟子の子貢が「たった一言で、死ぬまで守るべきだというようなことばがありますか」と質問した時、孔子は「それ恕か、己の欲せざる所を人に施すこと勿れ」。つまり、「それは”恕”だろうね。自分がされたら嫌なことは人にもしないことだ」と答えました。“恕”とは“思いやりの心”なのです。

 私達はうっかりすると、身近な家族の悩みにすら気付いてあげられないことがあります。まずは目の前の夫や妻、そして子供達の心の痛みに気付いてあげること。そして職場や友人、さらに地域社会から世界にまでその心が広げられたらと思います。