愛の知恵袋 20
げんこつの味

(APTF『真の家庭』130号[8月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

目から火が出る
 中学2年生の時だった。その日、ある教科の授業が自習時間になっていた。担任の教師から「みんな静かに自習をするように」と言われていたが、元気の良い者もいるし、悪もいる。じっとしていられるわけがない。10分も経たないうちにあちこちで話のグループができ、ガヤガヤと騒がしくなり、走り回る者も出てきた。

 その時だった。突然、ガラッと後ろの戸が開いて、「何をしてるんだ、お前たち!」と雷のような声がした。みんなが驚いて振り向くと”仁王様”が恐ろしい顔をして立っていた。当時、生徒たちから、「師匠」とか「仁王様」とか呼ばれていた学年指導主任で社会科担当の山本先生だった。隣の教室で授業をしていたらしい。

 私は一瞬、「まずい!」と思ったが後の祭りだった。「今は何の時間だ? 自習時間なら静粛に勉強しなきゃいかんだろ」と言いながら中に入って来て、教室を見回して言った。「学級委員長は誰だ?」

 私は仕方なく「はい」と手をあげた。すると、つかつかと歩いてきて、「みんなをまとめられないんなら、級長なんかやめてしまえ!」と言って、頭のてっぺんに思いっきりゲンコツを食らった。「ゴンッ」と鈍い音がして、目から火が出た。

 その一瞬、教室はシーンと静まりかえった。席を離れてふざけて遊んでいた者たちは、「次は自分か」と首をすくめて身動きもできないでいた。しかし、山本先生はその生徒達には一瞥もくれないで教室を出て行った。私は顔が真っ赤になり、涙をこらえるのがやっとだった。

仁王様が媒酌人
 私はゲンコツ事件のことは両親には話さなかった。ずっと後になって母に「実は山本先生から思いっきりゲンコツを食らったことがある」と話すと、母は意味ありげに目を細めて「ふーん、良かったねえ」と言った。

 中学を卒業すると、私は別府市の高校へ行くことになり、下宿生活をすることになった。

 その時、下宿先の世話をしてくれたのは山本先生だった。先生は私の担任になったことは一度もなかったが、住んでおられた家が近く、私の家が商売をしていたことやPTAの関係などで、両親とは親しくなっていた。

 そんな縁もあって、大学時代も卒業後も、田舎に帰ったときは、報告がてら時々先生を訪ねるようになった。あだ名の通り、柔道で鍛えた全身筋肉質の怖い先生が、そのシワの多い顔を、くしゃくしゃにされながら「ほーぉ、ほーぉ」と私の話を聞いてくださった。そしてさらに数年後、私たち夫婦が結婚披露宴をしたとき、媒酌人の席に座ってくださったのは、この仁王様のご夫妻だった。

ゲンコツが教えてくれたこと
 それから、十数年の歳月が流れた。先生は退職後は、国東半島の中央、文殊山に近い山里にある実家に住んで町の教育長等をしておられた。ある日、母から突然の電話があった。「山本先生が亡くなったよ」という知らせだった。すぐにも駆けつけたかったが、仕事の関係で遠隔地にいて動けなかった。

 しばらくして帰省したとき、先生のお宅を訪ね、霊前に手を合わせた。様々な思いが胸を去来した。奥様が入れてくださったお茶を頂きながら、「実は、私には忘れられない思い出があります」と、中学生のときのゲンコツ体験を話した。すると、奥様は「ほー、…あの山本がそんなことをしましたか…。ほーぉ」と驚きとも感嘆ともとれるような声を漏らされた。その時、あの先生は、滅多に人に手を上げるような人ではなかったのだということを改めて知った。

 あのことを通して私が学んだ教訓がある。一つは、「責任者という者は、全体を掌握できなければいけない。責任をとれなければ責任者ではない」という社会の厳粛なルール。そしてもう一つは、暴れていた生徒たちよりも学級委員長を罰することで、一瞬にして全員に反省を促した”一罰百戒”の教えである。今、思い出すゲンコツの味はほろ苦い。時間が経つほどに感じるのは、その背後にあった先生の愛情である。

体罰裁判が教えるもの
 最近、ある教師が、自分を足で蹴飛ばした小学生の胸ぐらをつかんで壁に押しつけ叱った行為が、行き過ぎた体罰であると訴えられた事件がありました。最高裁が、地裁、高裁の有罪判決を覆して無罪としたことで落着しましたが、この件を通して感じたことは、双方に反省の要ありということです。

 まずは、わがままに育てられた現在の子供たちを預かって指導する教師の立場は、非常に苦労が多いということを理解しておかなければなりません。

 従って、学校に指導を託した親たるものは、昨今、モンスターペアレンツと言われるような、子供に甘く教師の指導に干渉しすぎる愚かな親になってはいないかを反省すべきでありましょう。

 そしてまた、教師としては、自分のとった行動が真に生徒に対する愛情と熱意から出たものか、それとも、カッとなった感情から出たものであるかを、真摯に反省する必要があるのではないかと思います。