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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(77)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
一、何よりも神のものを愛する

▲金元弼先生

どのように叱るか

 あるメンバーに問題があったときに、まず、その人の良くないところを見て、「これをこう教えなければいけない」という心をもつのは当然です。ただ、その人を正しく導いてあげようということを目的としなければなりません。

 ところがその時に、自分の感情が介入すると大変です。多くの場合は、そうなっています。何回も教えてあげたにもかかわらず守らないという時は、おもしろくないのです。そういう中でその人に、「こうしなさい」と言うのはまずいのです。それは正しく導くという美名に隠れて、自分の感情を拡散しているのです。動機が良くないがゆえに、叱りつけたりすると、心が不安になります。叱られた人も、気持ちが良くありません。

 もし本当に、その人のために叱ってあげたときには、叱られた人は喜びの心、感謝の心をもつものです。そうでないときには、寂しい心が残ります。

 厳しく話すのは悪くありません。しかし、その前に、相手から「どんなことを言っても、彼は私のために言ってくれる人である」と認められる、ある期間をもたなければいけません。彼は、私のために食べないこともあるし、私のために涙を流し、私のために愛してくれる人だと認めたら、ほおを殴られても感謝するのです。絶対に殴られたとは考えないのです。ところが、そうでないときに打ったりするから、恨みが残るのです。

 もし、そういう気持ちがないのに、ひどく叱ったとしましょう。そういう準備もなく、叱ったとします。そのときには、あとで慰めてやらなければいけません。「私がこのようにしたのは、実はお前が善くなるようにと思ってしたのだから、よく理解してほしい」と言って慰めてあげなければいけないのです。そしてその人が、「はい、分かりました。心配しないでください」と言うところまでいって、初めて終わるのです。

 時には、どんどん話したら、泣きながら出ていく人がいます。それは、忠告するという目的が達成できなかったときです。そういうときには、訪ねていって、その人が私に言われる前の、快い気持ちの状態に返るようにしてあげなければいけません。

 ですから、人に「こうしてはいけない」と言うことは、そんなにたやすいものではないのです。人は、自分が誤っていることを自分自身で分かっている場合があります。その人に、「お前は、これが悪い」と言ってあげたら、もっと感謝の心が起こるようにならなければいけないのに、気持ちが良くなくなることがあるのです。人間は、人に言われて完成するのではなく、直接神に向かうようになっているからです。ですから、そういうときには、その人のために祈ってあげ、その人のために尽くしてあげるのです。

 ですから人を打つにも、すべて準備してから打たないと駄目なのです。忠告するにしても、その人が誤解したらどうしようかと、すべて考えて話さなければいけません。良くないことを厳しく言うのは、絶対に必要です。

 厳しさにも、二つの種類があります。冷たくする方法と、温かくする方法です。「悪い」と言われたら、もっと反抗心が出てくる人には、温かさで接しなければいけません。硬いものに硬いもので向かったら、全部砕けてしまいます。硬いものには軟らかいもので、軟らかいものには硬いもので向かうのです。人によって違うのです。静かに話してくれればいいという人と、悪いのをあっさり悪いと言ってくれるのを好む人もいます。人をよく見て、話してあげることです。

 先生はたまには、手を上げることもあります。ただ、私が30数年の間でそれを見たのは、今まで2回しかありません。その人は気性があまりにも強い人でした。その人は、先生が自分のために犠牲になっているということをよく分かっていながら、周りの人の言うことを聞かないで、自分のやり方に固執していたのでした。

 その人によって、大勢の人が迷惑を受けたのです。それで、たくさんの人から讒訴(ざんそ)されていました。そういう状態は、その人に良くないので、先生が代わりに打ってあげ、それで讒訴していた人の心をすっきりさせたのです。にもかかわらず、さらに讒訴する人がいるとすれば、その人が引っ掛かります。先生が打って許したからには、その人を愛さなければいけないのです。

 先生の場合とは反対に、私たちが叱りつけると、もっと近く、もっと愛するようになるのではなく、もっともっと遠ざかってしまうのです。目的とは全く異なった方向に行ってしまうのです。それは、その人を教え導くという美名のもとで、自分の感情を拡散したからなのです。

 先生に叱られると、叱られる前より、もっと近く感ずるし、もっと愛を感ずるようになるのです。そういう心がないときには、慎まなければいけません。それに、ただそういう心をもっているだけではいけません。「本当に自分を愛してくれている人だ、心配してくれているのだ」というふうに、相手に認められてから話してあげなければなりません。その時には、厳しく言ってもいいのです。

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 次回は、「兄弟の力を生かすには」をお届けします。


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