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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(71)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
一、何よりも神のものを愛する

▲金元弼先生

すべてを自分の責任とする

 もう一つ考えてみたいことは、世の中に起こる様々な悩み、不幸を、先生は、その人たちの責任と見ないで、全部御自身の責任として見られるということです。「これを私がしなければいけない」と感じ取られるのです。

 私の記憶では、先生が4回目の世界巡回旅行をされ、ヨーロッパを中心として回られた時に、世界はもう滅びる段階にまで傾いていると直感されました。そこで、こういう世界をどうしたらいいのかと、大変心配されたのでした。その時に神は、「それを感ずる人がやるべきである」と先生に教えられたそうです。

 往々にして教会の中や社会で、いろいろと心配なことが起こると思います。あるいは、「あの人がこんなで、困ります」とか、「このリーダーは本当に困ります」と心配することがあります。それをどうとらえるかも、先生が歩いてこられた道を考えてみると、「それを感じているその人自身が責任を取らなければいけない」という結論に至るのです。

 私たちは人の心配をするとき、ただいたずらに、「この人はこうで、こうです」と言っていたのですが、これからはそのようにできないと思います。

 その人がそうならないように、私が教えてあげなければいけないという責任を感じなければいけません。そういう心をもてば、人の悪口は、なかなか言えないようになるのです。たとえ言うにしても、まず自分の責任を果たしてから教えなければいけません。

 私たちは将来、たくさんの人たちに、間違っているところを正しく教えてあげなければなりません。それゆえ、先生が御自身の行かれた道を教えてくださるのは、私たちが同じ難しい道を行って勝利すれば、それが将来、人々を教える際の教科書になるからです。

 ですから、人を裁くということは、私がその人よりもっとやることによって、自然になされていくのです。私が人よりよくできないときには、かえって裁かれるのです。先生が人に弁明するよりも、実績のために死に物狂いで苦労された理由がどこにあるかが、お分かりになったと思います。先生はまれに、こうお話ししてくださいました。

 今は、よくスリの話をされます。今までの世では、人の物を分からないうちに自分の物にしてきたのです。しかし、理想世界では、それと全く反対のことが起こるというのです。どんなことでしょうか。反対に、分からないように人に与えるのです。

 先生は、こういった話を大勢の人の前ではなく、わずかな人の集まりの中でよくしてくださいました。そのように、人に会ったり、メンバーに会ったりする時には、常に人にプラスになる言葉を考えてほしいのです。

 私の今の考えが、神にプラスになるのか、マイナスになるのかを考えなければいけません。先生は本当に細かいところまで考えていらっしゃいました。

 また逆に、反対する牧師のお祈りを聞いても、それによってもっと神に近づくならば、どんどん反対しなさいと考えます。先生の考えは大きすぎるのです。

 先生には、敵を討つという恐ろしいほどに強い心があるのです。ところがその方法は、この世の中とは全然違います。反対する牧師たちを厚く迎えてみ言を伝えていかれたと話しましたが、先生に侍る食口たちに食べさせられないとしても、勝利しさえすれば、反対した人たちという敵を討ったことになるのです。

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 次回は、「愛はすべてに通じる」をお届けします。


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