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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(54)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
四、興南解放と釜山伝道

▲金元弼先生

40日間、弟子たちを訪ねる

 先生はそれからのち、平壌で因縁をもっていた弟子たち一人一人を訪ねられました。霊能者やメンバーたちが教会から離れていたことをよく御存じでありながら、直接訪ねていかれました。先生が直接行けないときは、人を遣わされました。私が行くこともありました。年を取って病気になっている人にさえも、「先生が無事に牢屋から出られた」ということだけでも、いちいち全員に知らせるようにしました。

 このことは、大変重大なことです。なぜか分かりますか。人と人の交わりではなく、神の前で永遠を誓って交わった関係だからです。その人たちは一人も牢屋に訪ねてきませんでしたが、霊的にも先生は知っていらっしゃいました。面会に来る弟子からも、メンバーたちが離れていったことを聞いて御存じでしたけれども、先生は相変わらず28カ月の間、一日も欠かさないでお祈りされていました。

 その人たちとは、先生が直接因縁をもったのですから、直接会ってみて、先生を受け入れるならば問題はないのです。受け入れられなくても、直接会って確かめない限り、因縁を切ることはできないのです。それは本当に難しいことです。

 平壌にとどまっていた期間は40日でしたが、先生はお帰りになっても、どういう苦労の生活をしたかということは、全然お話しにならないのです。その間ずっと弟子を訪ねて、先生が帰ってこられたということを知らせて回ったのです。中にはそれに反対する人もいましたが、先生は全員を訪ねてお話しされました。それゆえに、そういう人たちが霊界へ行っても、先生を讒訴(ざんそ)することはできないのです。

 先生の父母、兄弟、親戚は故郷にいらっしゃるのに、そういうことは全然気に掛けていないように振る舞っていらっしゃいました。3日もあれば訪ねていける所にいらっしゃったのですが……。先生の心情の中には父母、親族を思う気持ちは、誰よりももっていらっしゃると思います。けれども先生は、み言によって、天の因縁で結ばれた食口たちを見舞うことを、先に立てられたのです。

 先生は、刑務所から出て平壌に帰られてから3日ほどして、23人を周りに集めて、牢屋から持ってこられた米の粉を出されました。それは、先生に外から差し入れられたものでした。牢屋の中に米を差し入れる時には、焼いて粉にしました。

 牢屋での食事は、非常に重要な問題です。先生は牢屋を出て平壌に来るまでの道のりを、ひもじくても食べずに残しておいたものを、そのまま持ってきて、私たちに分け与えてくださったのです。普通の人だったら全部なくなっているはずなのに、先生はそれを残されたのです。「牢屋の中ではね、名日(節日、祝祭日)なんかには、米の粉で餅を作って、分けて食べるのだよ」と説明されながら、先生御自身がその米の粉に水を混ぜて練られました。練るのは手ではなく、先生が刑務所の中で作られたお箸で練ったのでした。

 餅を作ってから、残っている食口に一つ一つ分けてくださいました。こういうことを私たちに見せるのは、御自分がそのように苦労なさったということを見せるのが目的ではないのです。

 苦労の中にあっても、神が私たちを救おうとされるように、御自分が食べたいものも全部食べずして、食口たちに食べさせてあげたいという心情で分けてくださったのです。それを見ていると、先生の刑務所での生活は、追われる生活ではなく、もっと苦しい生活を追求する生活だったということを、つくづく感じました。

 苦しい生活の中にあっても、自分の生活、生命はどうなるのだろうかという、危機感に満ちた生活ではありませんでした。人類をどういうふうに救おうかと考えられ、また人類に復活の喜びを示すために「余裕ある生活をしたい」という思いで、生活されたことが感じられました。牢屋の中では、人類を救わんがために、どういうふうにしなければならないのだろうかと、ひたすら天のみ旨に走っていらっしゃったことを、つくづく感ずるのです。

 先生が残っている者たちを呼び集めて、その米の粉で餅を作って食べさせてくださったという話をしました。「ああ、そのようにしたんですね」と皆さんは受け取るかもしれませんが、そこには深い意味があります。

 囚人たちは、生命よりも食べ物を大事にします。けれども、先生は食べたくとも食べないで、残っている者に何かをおみやげとしてあげたいという心をもたれたのです。私たちはそのお心を、とても大事にしなければならないと思います。

 死ぬか生きるかという中にありながら、自分と因縁を結んだメンバーに、あるいは霊の子女に何かをあげたいという心、大事な物をおみやげとしてあげたいという先生の心を、最も学ばなければならないと思います。

 皆さんが教会員に、あるいは兄弟に、本当に大事にしているものをあげたとしたならば、その教会員や兄弟は、どのように考えるでしょうか。私たちは大抵、使って余ったものや、持っている物の中から贈ります。先生の場合は、ないところからあげようとするお心なのです。聖書の中にも、お金持ちのたくさんの献金よりも、貧しいやもめの、レプタ二つの献金のほうが、もっと価値あるものだと言われているのは、そういうところからなのです(マルコ124144)。

 レセプションなどに行ってみると、ドネーション(寄付)という箱があります。開けてみると、中には何もありません。これでは神が喜びません。そういう心を基台としては、神は教会を祝福することはできません。

 センターに行けば、ドネーション・ボックス(献金箱)もありません。祝福を受けるためには、受ける器を作らなければいけません。心のドネーション・ボックスを作るのです。

 兄弟に与える先生の贈り物が、どれほど貴重であるか分かると思います。自分のポケットの中からというのは、これはギフト(贈り物)ではありません。ギフトというものは、あらかじめ全部聖別して、人にあげる時にも、「これは本当に少なく、足りないものです」という心を合わせて差し上げるものです。先生のなさることは、すべて一つ一つが原理的な生活であることが分かるようになったと思います。

 私たちが子女の立場に立っている限り、絶対に先生は安息できないということを、皆さんは考えなければいけないと思います。子女をもっている父母は、休む時間がないのです。子女が父母の身代わりにならない限り、父母を絶対に休ませることはできません。

 父母の身代わりになるには、父母の心情を自分のものにすることです。そういう立場に立てば、先生を絶対的に安息させてあげることができます。ですから、ぜひとも私たちが、先生自らが私たちに示してくださった勝利の路程を早く勝利して、栄光を先生にお返ししなければいけないと思います。先生が御苦労されて得たこの栄光を、神と先祖と子女に返そうというのが父母の心情です。私たちは逆に、その栄光を先生に返す心情をもちましょう。

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 次回は、「失敗をはずみとする」をお届けします。


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