https://www.kogensha.jp

信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(52)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
四、興南解放と釜山伝道

▲金元弼先生

歴史的な解放の日

 1950625日に、「六・二五動乱」が起こりました。先生がいらっしゃった所は、北韓でも最も重要な工業団地でした。いろいろな武器を製造していましたし、興南(フンナㇺ)には五つの大きな工場が集まっていました。それゆえに、UN(国連)軍の攻撃の目標となったのです。

 六・二五動乱が起こると、早速、波状的に爆弾が投下されたので、収容所の人たちは受難の時を迎えたのです。六・二五動乱は最初、北韓から攻撃をし始めたので、南の方では準備をしていなかったのです。急にやられたので、ずーっと南の方まで侵入されました。共産軍は南の方に全軍進軍してきました。釜山(プサン)を残して、全部占領されました。

 UN軍の助けによって、戦いの情勢は、仁川(インチョン)の上陸作戦から一挙に北上していきました。平壌(ピョンヤン)に入る前に、先生のいらっしゃる興南に入ってきたのです。そこで、毎日のように爆撃がありました。仕事をしていても、空襲警報が鳴ると、警備の人たちは自分だけ防空壕の中に隠れ、囚人たちはそのままほったらかしにされました。

 爆弾の威力と爆風によって、人が1メートルくらいブーンと飛ぶほどの衝撃を受けたのです。皆がうろうろしている時に先生は、今いる場所は大変危ないと予感されました。先生はそこから場所を移動して、向こうの方に走りながら、「私を中心に直径12メートルの円の内にいれば無事である」ということを話されたのです。そこで人々は、先生の言うとおりにみんな先生の周りに集まった時に、今までいた所に爆弾が投下されました。その1トン級の爆弾で散々に破壊されましたが、先生の一団は全員無事だったのです。

 この戦争が起こったのと前後して、牢屋の中で弟子になっていた人の中に、北韓のキリスト教連合会の会長をしていた有名な一人の牧師がいました。彼は先生に一生侍って働く決意をしていて、自分の身に何事か起こると、常に先生に相談していました。

 興南から4キロくらい離れた本宮(ポングン)に、刑務所の分所がありました。そこの仕事は非常にたやすいということで、年も取っているので、先生に「私は、そこは非常に仕事がたやすいというので、移ろうと思いますけれども、先生の意見はいかがですか」とアドバイスを受けることしたのです。先生は彼に、「ここにいるほうがいいですよ」と勧めてあげました。彼は、興南にいるのはなかなかつらいと思っていたのです。それで先生から言われても、自分の思いのままに分所に移りました。

 次に、牢屋で最初の弟子になった金(キㇺ)さんが、先生のところへ来て、「私も大変なので、分所に移りたいのですけれども、どうしたらよいでしょうか」と聞きました先生は、「お前が本当に行きたいのならば、行くがよかろう。もし何事か変わったことがあった場合には、そこから逃げ出すようにしなさい」と注意してあげました。

 動乱がますます進むうちに、戦いの情勢は逆転して、UN軍は海から興南に上陸することになりました。牢屋では、囚人を別の所に移さなければなりませんでした。しかし、戦いが急に不利になってきたため、収容しているたくさんの人たちを連れていくことができないので、仕方なく処刑しなければならなくなりました。そこでついに手をつけたのが、この分所でした。その分所の人たちを全員トラックに乗せて裏山に運んでいき、残らず銃殺しました。

 その時、先生から「行かないほうがいい」と言われていた牧師は犠牲になったのです。ところが、金さんは、トラックに乗せられて走っている間に、どうにかして逃げなければいけないと思い、逃げたのです。そして無事に南まで帰ってきました。牧師さんは、み言のとおりにせずに銃殺され、金さんは、み言のとおりにして救われたのです。

 その次に手をつけたのが、先生の収容されている興南でした。夜になると、一人一人、部屋の前で番号を呼ばれます。そして、「この人たちを別の所に移す」と言って安心させて、裏山に連れていくのでした。囚人たちにシャベルを持たせて穴を掘らせ、次に機関銃で皆殺しにして、そこに埋めたのでした。先生には全員が処刑されるということが分かりました。運ばれていって、ある時間が経過すると、銃殺する銃の音が大きく聞こえ、それによって、銃殺されたということが分かったのです。その時の先生が、どれほど緊張されたかということを、私たちは推し量れると思います。一つの部屋から次の部屋へと、先生の部屋までどんどん近づいてきたのです。1013日には、先生の部屋から何人か呼ばれました。

 ところが、それを最後に、国連軍が上陸してきたので、その時点で共産主義者は、それ以上処刑する時間がなくなり、逃げ出すようになったのです。それで先生は奇跡的に脱出することができたのです。それが19501014日のことです。このようにして先生は歴史的な解放の日を迎えるようになったのです。

 皆様もよく御存じのように、サタンは先生を自分の思うままに自由にすることができたので、この牢屋にまで入れたのでした。けれども、サタンは先生を讒訴(ざんそ)することができませんでした。

 私たちがサタンの侵入できるある条件を提起しない限りは、サタンは紙一枚であっても侵すことはできないのです。先生の歩まれる道は、天が助けざるを得ない、そして霊界が協助せざるを得ない道であると、私は思います。

 先生は苦労の中にあっても、それを自分の苦労とせず、神の苦労の身代わりとして、天宙の身代わりとして、世界のすべての人々、あるいは霊界におけるすべての人々の苦労の代表として歩まれました。
 そのように、神から見てもサタンから見ても感動せざるを得ない、そういう心情の内容をもっていらっしゃいました。ですから、先生が危ないところに立てば立つほど、神が人を遣わしてそれを免れるようになさっても、サタンは讒訴できないのです。

 サタンも先生に讒訴条件がなかった場合、先生をあとにして逃げなければならないということになるのです。
 先生は神を感動させ、そしてサタンを感動させる、そういう人間としての勝利の基準を立てたのですから、その先生を慕う私たちも、こういう路程を勝利の基準としながら歩かなければならないと思います。

---

 次回は、「平壌で先生をお迎えする」をお届けします。


◆『信仰の伝統』を書籍でご覧になりたいかたはコチラ