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心情開拓
心霊を育てる生活原則(42)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

4 復帰歴史に見る生活原理
(1970年1121日)

▲李耀翰先生

中間位置で分立条件を立てる(1)

 アダムの家庭では、まずアダムの家庭蕩減(とうげん)復帰摂理によって、神の前に信仰基台をつくらなければなりません。したがって、アダムの家庭に対する神の摂理目的、神の事情は、信仰基台をつくらなければならないということです。不信仰してしまったアダムは、不信仰の条件によって、サタンとの関係もあり、創造主との関係もあるという中間に立って、どうしようもない立場です。結局、神は信仰人物を選定しなければならないのですが、アダムは中間の立場に立ってしまっているのです。

 自分が、自分の失敗で、責任のないことをやって、もう一人の主人と関係を結んでしまったものだから、神の前に威信も面子もないし、良心的に力もないし、方向もなく過ごしていたものが、堕落後のアダムの立場です。

 中間の立場というのは、どうしようもない状態のことであり、それ以前の時間に、喜んで条件を立てていない証拠なのです。だから、きのうの生活が情的に満ち足りた生活でなかった場合、きょうという日は、信仰に対して徹底した自分の立場をとれず、何かはっきりしない状態で朝を迎えたりすることがあるのです。ちょうどアダムが、その立場でした。

 アダム・エバは神との相対関係になって、神の前に情を尽くして成長すべきであったにもかかわらず、その情が横的に急に流れて、神との情が切れてしまったのです。だから、自分の位置が低くなり、情的に高まった霊的な力が抜けてしまったわけです。その後、本心に帰ろうとしても、自分の情的、霊的な事情が恥ずかしいし、そうかといって情的な関係を喜ぶこともできないし、アダムは中途半端になって、善の方向にも、悪の方向にも行けなかったのです。

 堕落そのものが、自分の呵責(かしゃく)の条件になったという時には、本心をもって堕落以前の立場に立とうとしても、力や欲望がわき上がりません。これは主体者との関係が切れてしまっているからです。
 この堕落以後のアダムの立場は、アダム自身もどうしようもないという心情的重さをもっているので、神自身もほっておくよりほかに、どうしようもないのです。結局は、その条件によって苦しめられるし、水に流されるまま、風に吹かれるまま、サタンの主管圏にほっておくより方法がないのです。

 私たちも、そんな中間位置の立場を味わうことがあるのですが、その理由は、それ以前に条件を立てる時、あるいは摂理に立つその貴重な時間を、貴重に取り扱わなかったからです。生命をもった人間は、いつも新しく、きょうはきのうのようでなく、何か神秘的で、新鮮で、一つの主体者の対象の立場として、主体者の愛圏、主管圏にいることができるのです。

 「原理」を聞いた時の私たちの立場は、一人の主体者の対象の立場をとったようになりますが、二つの事情が入ると、その気持ちを失ってしまうのです。だから、私たちは変動の激しい、変わりやすい、信じられない人なのです。しかし、ある時間が過ぎて、この時に条件が立てば、また再び出発できる力がわいてくるのです。

 だから、主体者としての神は、中間の立場にいるアダムを中心としては何の条件も得られないので、復帰摂理ができなくなってしまったのです。中間の立場といっても、神の側よりサタンの側に近いのです。だから私たちも心が低くなった場合には、サタン側の人が悪の条件を立たせようと近づいてきます。なぜかというと、アダムは堕落したあと、善悪の母体の立場に立ったのですが、堕落そのものの条件によって所有されてしまうことがあるのです。だから、それを分立して神の前に立つ条件を立てるのです。

 分立摂理をすることが蕩減期間になるので、その間、苦労しなければなりません。そして神と自分との関係をしっかり結んで、サタンを排斥する条件を立てるのです。

 あるいは、二人の主人と付き合うと悩むから、偽りの主人だけれど、サタンが喜んでくれるので、サタンに主管されたままでいるかです。

 偽と知ってはいるのですが、一人の主人という原理的立場をとっているので、元の主人のところへは面目なくて帰れないので、安心してサタンに任せてしまったとします。しかし、心はいつも善に奪われているのです。

 中間の立場というのは、サタンの側から何かサタンと関係を結ばせようとするサタンの摂理がやって来ますから、こういう時には、神の立場で分立しなければなりません。原理的に分立するには、中間の位置を過ぎた二代目の、二人の子女を一つと考えて摂理するのです。これを血統をもってカイン・アベルに分立するのです。カインはどういう血統の表示体であり、アベルはどういう血統的立場であるかと、神は見たのです。

 だから、私たちの立場も、み言(ことば)を聞く時、忘れられない何か復活した思い、あるいは信仰的決意を受けるのです。それが私たちのみ言を通じての血統なのです。

 だから、神はそれ自体を見るのではなく、すべて血統的に見るのです。そしてまた、面目ない立場に立ったその条件を見るのではなく、初めに因縁を結んだその動機を見て、また帰ってくるのを待っているのです。

 聖書に放蕩息子の話がありますが、お父さんの立場は、自分の息子が財産をみんな費やしてしまったそれを見るのではなく、腹の中の10カ月、あるいは育てた時の愛情、その動機を見て、とても恋しく思うのです。その結果のみを見ると、敵愾心(てきがいしん)が起こってくるのですが、その動機をもっているので、息子もその動機の愛情に引きつけられて、悔い改めるのです。

 それと同じように、神が復帰摂理をされるのは、人間の失敗を見るのではなく、創造したその動機があるので、人間を愛さざるを得ないのです。親というのは、子供がいくら不孝をしても、愛をかけ、愛の実体として生んだのですから、その親不孝は許されないが、しかし、歩んで育てた愛情によって恋しくなり、帰ってくるのを願うし、また共にいるのを好むのです。

 アベル・カインを見る時は、血統を見るのです。血統というのは、内的には心情のことをいうのであり、霊的堕落の条件は、天使長を主体にしての堕落のことであり、義をもって、また堕落以前の立場に戻ろうとしたその動機をもって堕落したものは、より神に近いのです。このような精神的、霊的動機を見て、二番目の堕落、二回目の愛の表示体としてのアベルを神の側に立たせたと、「原理」にあります。その分別の仕方を学ぶ理由は、神が私たちを見る時の根本的愛を知るためであり、神はこういう神であるというのを覚えるためです。

 アダムは中間の立場に立ち、方向を失ったのですが、アダムを失った神の立場は、どれほどつらかったか、そのつらさをほどかなければ、私たちは子女になれないのです。だから原罪というのは、堕落後の血統的なものではありますが、心情的にはその神の恨みを解かなければぬぐわれないのです。

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 次回は、「中間位置で分立条件を立てる(2)」をお届けします。


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