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心情開拓
心霊を育てる生活原則(35)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

3 神に所有される者
(19701129日 水澤里〈ステンリ〉)

▲李耀翰先生

神に所有された自分

 私たちは、分別したあとには、自分のものでない力を所有した体験をするのですが、その所有した自分というのは、結局、神に所有された証拠なのです。モーセを通じて十戒を与えながらイスラエル民族は神のものだと、三回の奇跡や十災禍を通してイスラエル民族は神のものだと、何か与えたあとに神のものだというのです。生命に原力を与えたのちに、お前は私のものだと教えてきているのです。

 神は所有する時は、必ず、サタンより以上力のある、価値のあるものをくれて、「君は私のものだからこれをやるのだ」と、こういうふうに神は私たちを育てていっているのです。神は絶対にうそは言わないのです。

 いくら蕩減(とうげん)の道を歩いても、死亡の道を歩いても、神はうそは言わない。だから、いつも蕩減路程を歩いても、いかに苦しい道を歩いても、神に対して愛情あふれる、感謝あふれる道を歩くようになるのが、神との関係を結んだ人の実情なのです。

 乏しいながらも、自分は忍んで行くというと、霊的には涸(か)れていって、結局、外的な条件をもって自分はイスラエル民族だと思ったのが、すべてのイスラエル民族なのです。掟(おきて)なら掟を生命視しながらも、自分は感謝の念もない、あふれる愛もない、人間同士の愛情がみな涸れてしまっている、そういう祭司長たちの状態です。その結果、メシヤを見ても分からなくなってしまったのです。

 だから、自分が所有された証拠があれば、所有した人にすぐ通じるのです。神のものと通じるのです。サタン側の素性(そせい)をもって、自分が悲しくなったり、不平をもったりすると、必ず不平をもっている人と通じる。教えてやらなくても、祈らなくても、大勢の中でだれだれがということを、個人的に交わってみなくても、不平をもつと、不平をもつ人とよく通じ、お互いに授受しながら付き合うのです。それだから、よみがえった者、すなわち自分と神との関係がはっきりした人は、神の味方にいる存在を考えなくても、通じるようになっているのです。

 だから、まず絶対者との因縁が一つのスタートであって、これを最後までもっていって聖別されていくのです。そのようにする目的はどこにあるかというと、天宙的な目的をもって、神が私たち一人一人に付き合っているという、こういう二重目的観からなのです。私たち一人一人を所有する神は歴史的であり、永遠であり、天宙的であり、私たちを霊界の人全体を代表として、地上の人全体を代表としてそうするのだ、というようにそれを育ててみながら感じてみると、実にそうなのです。

 今までその立場に立つ前には、自分の心配ばかりしていた。ところが、み言(ことば)を通じてよみがえってみると、自分の問題よりも、その社会問題がつくづく悲しくなってくるとか、もっと国家問題に、本当に自分の問題より以上に関心をもつようになる。これはなぜかというと、私たちを所有した神が、私たちを所有する目的がそうであるから、その心情が自分を通じて、だんだんと広がっていくのです。だから、自分より相手のことに、つくづく自分の事情のごとく痛みを感じ、それを実感する人は、生まれながらすぐれた心情をもった人なのです。

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 次回は、「生活的原理の理解」をお届けします。


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