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心情開拓
心霊を育てる生活原則(29)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』より)

2 個人と教会の発展のために
(1970年6月26日)

▲李耀翰先生

情的に授受する人をもつ

 だから、教会長は、付き合っている人と、どれだけ情的に授受しているかということです。主従関係は、貴重に思うけれども、自分と平面的な左右、前後の関係を貴重にしないのでは、駄目なのです。かえって主従関係を知らなくても、左右、前後の関係を正面視したら、かえって幹部が訪ねていくくらいの貴重なことなのです。私たちは、全然反対なのです。それは、原理的に言えば、実体基台です。そこが一番難しいのです。

 それが信仰の路程です。蕩減をどのようにするか。原理的に、私たちの瞬間瞬間をどう解釈していくかということです。私たちは、貴重なものをもった者としての立場に立っているのです。間違いやすい面が分かれば、ある程度責任をもって、私たちは成長していけます。

 疲れた人には、霊的に慰めてあげる人が必要です。自分も何も知らずに、大勢と一緒に、自動的でなく、団体的になって頑張ってやったのちには、何か乏しいのです。それは、理念的な、人格的な活躍ではなかったからです。そういう時に、内的に兄弟たちを、原理的に解釈してやりながら、霊的に慰める、祈りをもった人がいなくてはならないのです。

 自分を中心にして離れた人がいたのですが、そういう危険を防ぐには、初めからその人の生活の仕方、その人の信仰の仕方を、理念的に教育していかなければならないのです。平生の考え方が、理念を中心としていなかったので、離れたのです。自分の生活の一つ一つをぼかして、整理しなかったのです。それは結局、教育してやらなかったからです。だから私たちはいつも、信仰の座談会、懇談会が必要なのです。

 個人個人に、付き合う人がいなくてはいけないのです。それでお医者さんみたいになって、一人一人を診断して、その人の考え方、その人の喜んでいる時の考え方、「原理」に刺激を受けた時のことなど、この人を分析してやらなければなりません。なぜかというと、その人が「原理」を聞いた時、命をささげたいという決意をもっても、どういう位置で決意をしているのかを、知っておかなければならないからです。そうでないと、霊界のほうに通じた場合、危険性があるのです。考えてみると、そういう人は元からずーっと、そういう基台をつくってきているから、そうなるのです。だから、元から見てやらなくては駄目です。

 そして、慰めたという人の立場が、だれを中心として慰めたかが問題です。そういう人のことを聞いた時には、すぐに教会長、地区長に報告して、私はこの人にこういうふうに慰めたということを、地区長なら地区長一人と相対関係を結んで、その人を指導しなくてはなりません。こんなふうに自分一人が自分の立場で原理的に解答を得たとか、自分の意にそってこう発表したとか、そうなると、霊界から直接主管されてしまうのです。

 それが霊界から来ても、地区長に、「霊界からこういう話があるのですが」と相談してみるのです。それで、地区長が、「それはいいね。いい恵みですね。いい真理ですね。とても貴重な悟りですね」と、こう一応認めたなら、それから、「ああいう状態だから、私はこういうふうに答えました」とか、それとも、「地区長、こういう方面を指導してみてはどうですか。あの人はこういう面に乏しいんですが。地区長、こういうふうにあの人と付き合ってみてはどうですか」と話すのです。

 自分が悟っても、地区長との関係を貴重にしなければならないのです。人間というものは、結局エバと天使長との相対関係なのです。今の話は、結局アダムの家庭で起きたことが反復したのです。だからその時エバが、「天使長はこう言っていますが」と、アダムに相談すればいいのです。相談しないで、「そうですか。神様は食べたら死ぬと言ったのですよ」とこう、自分の立場で神からもらった内容を、結局天使長に言ってみたのです。言ってみたのだけれども、自分には自信がないのです。ただ食べるなという戒めを聞いたことを、天使長に渡したのです。

 そうでなくて、兄弟から何か質問を受けたとすると、地区長に、「こういう相談が来ましたが、私はこういう立場で答えました」と報告するのです。そして、その人たちの考え方が、地区長を中心としているのかいないのか、それを見てあげなくてはならないのです。

 私たちは、地上の人間と情を結ばないと、信仰しながらも、すぐ霊的に主管されやすいのです。「原理」を貴重に思っても、人間との関係が親しくない人は、みんなそうなってしまうのです。「原理」を貴重に思いながら、教会を貴重に思わない人は、みな孤立してしまうのです。教会に来ても、兄弟との授受ができない人がいるでしょう。孤立してしまうのです。

 いつも「原理」を貴重に考えていて、相当深みのある人の場合は、人と付き合ってみると、みんな浅く見えるのです。その人が、教会の中で、青年の中で、一番知的に高いとか、「原理」の理解が深い場合、そういう深さを第二、第三の人に伝えなくてはならないのです。それを、自分一人で保っていれば、危険なのです。

 なぜかというと、規範を作らなくてはならないのです。自分が貴重に思ったものは、目的のために貴重なのであって、自分一人が貴重なのではないのです。「原理」を悟っても、自分一人で喜んでは目的にかなっていないのです。

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 次回は、「元に戻すのに三倍の誠意を尽くす」をお届けします。


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