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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(25)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
二、いつも弟子に関心をもたれる先生

▲金元弼先生

惜しみなく与えられる

 いろいろな人たちが先生を訪ねてきて、彼らは自分の過去の話、今まであったことをすべて先生に話しました。その話は長くなりました。生まれた家のことから、神に会って恵みのある生活をするようになったことなどを長く話しても、先生はよく聞かれました。また、幼い食口でも、年を取ったメンバーでも、先生は丁重に迎えてくださいました。

 皆さんの教会には、新しく教会員となった人で孤独な人が、たびたび教会長を訪ねることがあると思います。先生を訪ねた人の中にも、そういう人がいたことを考えてみてください。その人自体を見れば、みすぼらしい人であるかもしれないけれども、その人が教会へ来て、神のために尽くしたこと、そのすべての功績を、先生はそのまま受け取ってくださったのです。先生は外的なことよりも、内的な、神に対してどのくらい善の功績を成したかと、その功績を見てお迎えになるのです。

 反対される中にあっても、神から「開拓伝道に出るように」と啓示を受けたという人が先生の所に来ました。「神はこのように啓示なさいますけれど、私はどうしたらいいのでしょうか」と聞いてくるのです。先生は「神のために、善の道のために家庭を振り返りもしないで尽くしていくならば、絶対にその家庭は滅びないでしょう。かえって神が助けるでしょう」と教えられました。

 私たちが開拓に出ても、家のことに思いが残り、手紙を書いたり、心配事があれば帰ったり、心配して祈ってあげるというふうに、振り返ってみるとしましょう。すると、神がその家庭を見てあげようとしても、その本人が全部見ているので、神が見る必要はないということになります。神のために家庭を顧みないとしても、神は、「おお、この者が私のことでこのように家庭を顧みていないならば、私が代わって見ていないといけないなあ」と言って、神が守り、導いてくださるということになるのです。私が守るときには限界を感ずるけれども、神が守ってくだされば、絶対安全だということになるのです。

 食口たちは、先生のことがより深く分かってくると、自分の大事なものを全部先生に差し上げたいという思いになりました。着物を買って贈る人もいれば、心を尽くして作った料理を丁重に持参する人もいました。しかし、先生は、献品された万物を、教会に訪ねてくる貧しい人や食口に分け与えられました。

 皆さんもよく知っていることでしょうけれども、本当に心を尽くして先生のために作ったものを贈ったとき、先生はそれを他の人に与えられます。先生が持っていらっしゃると思っていたのに、他の食口が持っているのを見るのです。それで心に寂しさを感じるのです。それは気持ちのいいことですか、悪いことですか? これと同様に、その食口も寂しく感じました。だからといって、寂しい感情を先生の前では見せないのですが、先生はよく知っていて、その人にお話ししました。

 「あなたが私にこれを持ってきてくれたので、私は受け取ったのです。私が受け取ったからには、私のものとなったのです。だから、私のものを私が自由に人に与えるのに、どうして干渉するのですか」と言われました。また、「あなたが寂しいと思うのは、あなたがまだ自分のものと考えているからです。私にくれたのなら、私が人にあげたとしても、私の代わりに彼が着ても着なかったとしても、私が着ているものとして対処しなさい」と教えてくださいました。このようにして、18カ月が過ぎていきました。

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 次回は、「歴史を蕩減復帰する私たち」をお届けします。


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