日本人のこころ 55
角田房子『閔妃暗殺』『わが祖国』

(APTF『真の家庭』276号[2021年10月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

朝鮮王妃を日本人が殺害
 角田房子の『閔妃(みんび)暗殺 朝鮮王朝末期の国母』(新潮社)が出たのは19881月。同書を読んだのがきっかけで当時、私が編集部にいた月刊雑誌「知識」で、片野次雄の時代小説「李朝滅亡」の連載が同年12月号から始まりました。角田のスタンスは、「できるだけ事実に即して書き、判断は読者に任せる」というもので、片野も同じでしたが、94年に新潮社から出たときには、「韓国より」と評されました。それは仕方ないことですが、当時の朝鮮王朝の問題もきちんと書き込み、後世の批評にも耐えるものだと思っています。

 角田は1914年、東京生まれ。ソルボンヌ大学中退で、60年に「文藝春秋」誌に寄稿したのをきっかけに執筆活動を始め、61年「東独のヒルダ」で文藝春秋読者賞、64年『風の鳴る国境』で婦人公論読者賞、85年『責任 ラバウルの将軍今村均』で新田次郎文学賞、88年『閔妃暗殺』で新潮学芸賞を受賞しています。

 私は今村均の息子・和男が専務理事を務める財団法人の東京事務所長をしていたとき、取材の仲介をしたのが角田との出会いでした。

 閔妃暗殺事件は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃・明成皇后が1895108日、日本公使・三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本公使館守備隊や公使館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮訓練隊らに暗殺された事件で、韓国では事件の年から「乙未(いつび)事変」とも呼ばれています。一国の王妃を暗殺するという信じられない大事件ですが、日本ではほとんど知られていません。

 朝鮮半島の支配権をめぐる日清戦争が終わると、日本は次に南下を狙うロシアと争うことになります。日本側は高宗の父の大院君に接近し、閔妃は、日本人の影響下にあった訓練隊を解散し、ロシアの教官による侍衛隊に置き換えようとし、これに対して日本公使館は危機感を高めていました。

 当時、朝鮮王朝は大院君の一族と閔妃を出した閔氏一族による権力闘争が、外国勢力を巻き込んで繰り返されていました。朝鮮王朝末期には、日本の明治維新をモデルに開国を目指す改革派(開化派)と、封建的な旧体制を守ろうとする守旧派(事大党)の路線闘争、さらに朝鮮半島をめぐる日本・清国・ロシアの覇権争いがありました。

 事件後、世界から非難された日本政府は三浦を免官処分し、事件に関与した疑いのある外交官や軍人らを帰国命令させました。軍人8人は軍法会議にかけられ、三浦ら48人は謀殺罪等で起訴され、広島監獄未決に収監されましたが、首謀と殺害に関しては証拠不十分で不起訴となり、釈放されたのです。

 事件後、朝鮮の裁判では、王妃殺害は自分だと証言した前軍部協弁(次官)の李周会、日本公使館通訳の朴銑、親衛隊副尉の尹錫禹の3人とその家族が処刑されています。現場にいた高宗は、王妃を殺害したのは日本人壮士らで、朝鮮人の逆賊が補助していたと、その子の純宗は、訓錬隊第二大隊長の禹範善(ウボムソン)が「国母ノ仇」であることを目撃したと述べ、彼も王妃殺害を自白しています。

▲角田房子・著『閔妃暗殺』(新潮文庫)

韓国農業の父・キムチの恩人
 『わが祖国 禹博士の運命の種』(新潮社)の主人公は「韓国農業の父」「キムチの恩人」として親しまれる禹長春(ウジャンチュン)で、閔妃暗殺にかかわり、日本に亡命した禹範善と日本人女性・酒井ナカとの間に生まれた人です。

 長春は東京で生まれ、呉市で育ちました。父の範善は国賊とされ、長春が6歳の時に、かつて閔妃に仕えていた高永根に暗殺され、遺骨は広島県呉市の神應院と栃木県佐野市の妙顕寺とに分骨されています。

 長春は広島県立呉中学校から朝鮮総督府の支援で東京帝国大学農科大学に進み、卒業後、農林省西ヶ原農事試験所に就職し、朝顔の遺伝研究などに没頭します。この間に結婚した長春は、父の恩人で朝鮮人亡命者を支援していた須永家の養子になり、須永長春を名乗って、子供たちも日本人として育てます。

 その後、埼玉県鴻巣試験地に転任してナタネを研究、ペチュニアの「完全八重咲き理論」がサカタのタネ創業者・坂田武雄の目に留まり、事業化に成功します。さらに論文「種の合成」で東京帝国大学より朝鮮人初の農学博士号を取得し、世界に知られるようになります。次いで、タキイ種苗が長岡京市に新設した研究農場長に迎えられた長春は、花卉(かき)類や蔬菜(そさい)の育種などの研究に打ち込み、終戦後、同社を退社します。

 長春の帰国運動が起こったのは1948年、大韓民国が建国されてからです。当時の韓国は食糧不足が深刻で、農家は優良な種子の不足に苦しんでいました。キムチの材料である白菜、大根などの種子も日本から輸入していたのです。長春の帰国は政府・国民挙げての大きな運動となり、韓国行きを決意した長春は1950年、52歳で単身渡韓します。

 釜山に設立された韓国農業科学研究所所長に就任した長春は、大根と白菜の種子作りに取り組み、日本と韓国の在来種を掛け合わせ、人工交配を重ねて、5年かけて一般普及種子を開発しました。韓国は大根や白菜を自給できるようになり、済州島でのミカン栽培にも成功します。長春は1959年、61歳で病没する直前、大韓民国文化褒章を贈られ、国葬に準じる社会葬で多くの国民に見送られました。

 角田は地道な取材で、長春が何度も韓国の祖家を訪ね、韓国社会で重視される長男の使命を務めていることを明らかにしています。祖国のためだけでなく、日本と韓国の家族のために全力を尽くした生涯だったのです。

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