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青年よ行け、そして世界を救え
21世紀の青年運動への提言(8)

 36家庭の朴普熙(パク・ポーヒ)先生(1930~2019)による講演「青年よ行け、そして世界を救え」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。

(光言社・刊『青年よ行け、そして世界を救え』より)

四、人類の終末

 皆様。
 では、終末とは何でしょうか? 終末とは、堕落世界に終わりを告げ、理想世界の出発を意味します。

 今、この世間には、特にこの日本には、間違った終末論がみなぎっております。それは、終末には天変地異が起こって、天地が破壊され、またハルマゲドンといわれる人類最後の戦争が起こって、人類が滅亡するという終末論であります。皆様、これは間違った終末論でございます。先にも申し上げたように、堕落したのは人間だけであって、何も天と地が悪いことをしたのではありません。何も美しい日本の山川草木が、罪を犯したのではありません。その天と地をなぜ、神が滅ぼす理由があるでしょうか。堕落した人間だけが変われば、全部が変わるのです。人間だけ完成すれば、全部が完成するのです。

 ですから、終末を迎えるのは、この堕落した人間世界、この地上地獄だけであります。同時に神は、新しい世界、すなわち善の世界を、この世に出発させるのです。終末は、善悪を分別する日であります。人間を収穫する日です。打ち場の麦をふるい分け、麦と殻に分けるのです。終末はなぜ、恐ろしいのでしょうか? それは地震や災いがあるからではありません。それは審判の日だからです。ところが、その審判は神のみ言(ことば)で行われるのです。天変地異で行われるのではありません。

 ですから、皆様がこの終末の神の審判において、生き残る道は、神のみ言を受け入れることであり、再臨の救世主につながることであります。それだけでございます。そして、神の良き人として収穫される資格を備えるならば、終末は皆様の希望の日であります。終末は滅亡ではなく、救いの時です。終末は皆様の天国出発の時であります。終末は、神と人類が親子となる、喜びの日であります。
 その希望を伝え、その日の審判に、み言をもって備えさせるのが、この希望の日の講演の目的でもあるのでございます。

 では、皆様! その終末はいつ来るのでしょうか?
 終末は、今でございます。新しい時代が、紀元2000年から始まるのですから、もう5年しか残っておりません。もはや、人類歴史の転換期は始まりました。『ついに解明された1999年』、『奇跡の1999年』(高坂満津留・佐藤昌樹共著、光言社刊)がみな、このことを示しているのであります。

 皆様。
 ここで、私たちが自覚しなければならないことは、今私たちは人類歴史において、最も重大な転換期に生きているということでございます。

 これは、正に「のるか、そるか」の時でございます。ここで、再臨の救世主に出会えば、最大の幸運であり、その時期を逃せば、これはまた、最大の不幸にもなるのでございます。

 今日、私たちが生きて、紀元2000年を迎えるということは、普通の出来事ではありません。これは宇宙飛行士、ニル・アームストロングが月に降りるような幸運なのでございます。

 私たちはこの人類の終末の神の審判において、必ず「希望の日」を勝ち取る勝利者にならなければなりません。

私と救世主の出会い

 私は1950年の韓国動乱の時、陸軍士官学校の生徒でありました。戦争が起こったその日から前線に出て、生々しい地上地獄を体験いたしました。毎日毎日、同僚が死に、部下が死んでいきます。私もいつ死ぬか分からない。あの時、私は21歳の青年でありました。いったい、「死とは何か。死後に何があるのか。私を助ける神様はいるのか」。毎日、このような質問をせざるを得ませんでした。

 私は宗教を求めました。お寺にも行きました。教会にも行きました。哲人にも会いました。けれども私の胸に、救援の火を付けてくれる真理は、どこにも見つかりませんでした。

 死ぬほど苦しい五年の修行の末、1957年、ついに私はレバレンド・ムーンの「統一原理」に接したのでございます。

 驚くべきかな! 私の人生は一遍に光に照らされました。疑いの雲、不安の雲が一遍に消えました。死とは何か、生命とは何か、神はいるのか、歴史はどこに行くのか、どんな生き方が本当の生き方なのかという、人生の根本問題に対して、私ははっきりと解答を得たのでございます。深い霧のごとき疑いは、日本晴れに晴れ、私はまさしく偉大な真理に出会うばかりか、人類の救世主に出会ったのでございます。

本当の生命と死

▲霊的な生と死の概念

 私はここで、私たちの人生において、最も重大な本当の生命とは何か、死とは何かに対して一言申し上げたいと思います。

 今、私たちは生きております。日本に1億2000万人が生き、世界に50億の人間が生きております。少なくとも私たちは、生きていると思っております。

 問題は、神様の目から見て、私たちは本当に生きているかであります。不幸にも神様の目から見て、この世は、この世界は死んでいるのであります。それは何も私たちが、悪いことをしたからではありません。人間先祖の堕落の結果であり、神から離れた結果でございます。

 神の目から見て、死んでいるということは、どういう意味なのでしょうか? それはもちろん、この肉体が死んだというわけではありません。

 死んだのは、霊的生命であります。神は人間にだけ、肉体のほかに、もう一つの生命、霊的生命を下さいました。動物には、霊的生命というものはありません。神は人間を二重につくられました。一つはこの肉体的生命であり、もう一つは霊的生命であります。

 その霊的生命を霊人体と申します。新しい言葉ですので、もう一回申し上げます。霊人体! 私たちは大体、死んだら何か魂とか、幽霊のような物が残ると思っております。それは間違った考えでございます。霊人体は、単なる魂ではなく、幽霊でもなく、もう一つの完璧な、霊的な心と体でございます。本当は、この肉体よりも完璧な体が霊人体であります。

 皆様は今、私の肉体を見ておられます。ところが、皆様が肉眼で見ることのできない、もう一つの私、霊的な私がまた、ここに今立っているのでございます。二重の私が一つになって、ここに立っているのです。私の霊人体は、私の中にいわば「はめこまれて」おります。皆様の霊人体も今、皆様の中にはめこまれているのです。

 見えないというのは、この肉眼だけであって、私たちの霊眼が開けば、明らかに見える体です。私が永生するのは、この肉体ではありません。私の霊人体であります。それが本当の私であり、永遠に生きる私です。

 このように、人間が永生するのは、その霊人体であるのに、それが人間の堕落により死んだのです。これは永遠の死でございます。私たちの肉体の死は神様の目からは死ではありません。それは神の目からは「家移し」にすぎないのです。地上世界から天上世界へ家を移すのです。その天国には霊人体だけで入りますからこの肉体はいりません。それで着物を脱ぐように肉体をこの世で脱いでいくのです。創造本然の人間は霊眼を持ってあらかじめ霊界をみんな見て行くのですから、そこには「死の恐怖」がありません。皆様はっきりと申し上げたいことは、人間の堕落により人は霊眼がくらみ死後が見えなくなったので、「死の恐怖」が現れたのです。それが今、この世で死を恐れる理由でございます。天国人には「死の恐怖」はございません。神様から見る本当の人間の死は霊的な死であります。

 この宇宙に、生命の根源はただ一つ、神様でございます。この世のあらゆる生命はすべて神から来るものであります。それが一つの草であろうと、虫であろうと、このような花であろうと、現代の科学では生命をつくることができません。偽物はよくつくられますが、生命は吹き込めません。死というのは、その生命の根源、神から離れた結果を申します。枝が幹から離れたら、枯れて死んでしまうのは当然であります。

 神様はこの地上世界のほかに、私たちの霊人体が生きる、もう一つの世界をつくられました。それを霊界と申します。言い換えれば、神は地上に天国一つ、天上に天国一つ、二つの天国をおつくりになりました。

 そして人間は、この地上天国では、肉体と霊人体で共に生き、地上の肉体の生命が終わると同時に、それを私たちは、「死ぬ」と言うのですが、本当に死ぬのではなく、我々の霊人体は天上天国に昇り、神と共に永遠に生きる構造になっているのであります。

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 次回は、「肉体の生命を賜った理由」をお届けします。