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新・熱き祈祷のすすめ 21

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「新・熱き祈祷のすすめ」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 祈りの必要性や祈りの種類、実践方法をまとめた祈祷の手引書です。

松本 雄司・著

(光言社・刊『新・熱き祈祷のすすめ』より)

第五章 祈りの実践

5 祈りの壁

 私自身も以前は祈りが苦手で、自信がありませんでした。徹底して祈祷に取り組んだことがなく、勝利したという実感がなかったのです。もちろん、周りの兄弟たちと同じように、朝、夜の祈祷会や野外での徹夜祈祷会などに参加していましたが、本当の意味での勝利感がもてず、祈祷の深い意義や価値も分からないままだったのです。あるとき、これではいけないと痛感して、真剣に祈祷と取り組むことになったのです。その当時、既に地区の責任者になっていた私には、青年学生や壮年婦人の方からもいろいろな相談を持ち込まれました。複雑で深刻な問題にぶつかると、「これはもう祈るしかない」と思う事例もありました。「祈りましょう。祈ってください」と指導し、相手も「私もやはりそれしかないと思っていました。祈ってみます」と答え、お互いに解決したつもりで別れるのですが、しかしそれが解決にならないのです。

 祈らなければならない、祈りたい、祈るしかない、と分かっていても、実際には祈れないのです。祈る能力が養われていないという問題にぶつかりました。誰もが祈りの必要性は感じたとしても、祈って問題が解決するほどの祈りは、なかなかできません。そこに祈りの手ごわさがあるのです。

 今まで自分が取り組むまでは見えなかった祈りの問題点が、祈りとの闘いの中でだんだん見えてきました。

 祈祷というのは、私が神に対して何とか通じたいと願い、私の訴えを神に届けて、神からの答えを得たい、という気持ちをもって祈るわけです。まさしく祈祷は神と私たちとの対話である、ということに誰も異存はないでしょう。しかし、定義がそうだからといって、「まさしくそうだ、祈りは神との対話である」と実感している人が、果たしてどれだけいるでしょうか。私たちの悩みはそこにあるわけです。神に通じ、神からこたえられたという体験がなかなかできないところに、もどかしさ、口惜しさがあるのです。

 既に述べたように、祈りが好きになれないという事実があり、それには理由があることが分かりました。祈祷には苦痛が伴うからであり、なかなか通じないからです。ゲッセマネの祈りの時に、眠ってしまった弟子たちに対して、イエス様は「心は熱しているが、肉体が弱いのである」(マタイ二六・四一)と嘆かれました。私たちには、霊的な業に耐えにくい肉体の弱さがあるのです。逆に言えば、これを克服する方法をつかむことができたならば、祈祷は大きく前進し、勝利の突破口を見いだすことができるわけです。

 では、なぜ神との対話であるはずの祈祷に、苦痛が伴うのでしょうか。祈っても祈ってもなかなか通じない場合、砂をかむような苦い思いをもって、祈祷の座を去らなければなりません。そんな体験を何度もすると、「神様はちょっとケチじゃないでしょうか」という心境になります。それがもっと高じると、開き直って、「どうせ私は堕落性だらけ、罪だらけだから、神様は顔を出してくださらないんでしょう」とまで思いたくなってしまいます。

 しかし、よくよく考えてみると、それもおかしいのです。私たちにとって、愛の親の立場に立っておられる神ならば、私たちが神に通じたいと願うよりも、何十倍も何百倍も私たちに対して通じたいと思っておられないはずがないわけです。ではなぜ、私たちも神に通じたいと思い、神も私たちに対してもっと通じたいと思っておられるにもかかわらず、なかなか通じることができず、苦痛が伴うのでしょうか。

 その壁にぶつかった時、私も非常に困りました。しかし、常に私の励ましになったのは、『御旨の道』の祈祷の項にある「この世でも挨拶をするのにその方法があるではないか。祈りにおいても研究してやりなさい」という文(ムン)先生のみ言(ことば)でした。そう言われてみれば、それまで研究や工夫をしたことがなかったのです。研究し、工夫しなくてはいけないと考えるようになったことが、糸口となりました。神は関心をもつところに働いてくださるのです。やがてその突破口を開くヒントが、佐藤雅文さんの著書『祈祷の生涯』の中から得られたのです。

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 次回は、「祈りの実践~祈祷は『祈闘』である」をお届けします。


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