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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(9)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第一部[証言]先生と歩んだ平壌・興南時代
一、平壌開拓の日々

▲金元弼先生

授受作用から見た喜びと失敗

 ここで、皆様にお話ししたいことがあります。人は失敗するときに、二つのポイントがあります。人が失敗するのは、一番喜んでいる時です。次は一番苦しく、つらく、寂しい時です。一番つらく、悩んでいる時に失敗することは、よく理解できるでしょう。

 しかし、人が喜んでいる時にどうして失敗するかということは、皆さんもなかなか理解できないと思います。それを、創造原理の授受作用の原理で説明します。

 存在というものは、必ず主体と対象があって、それが良く授受作用することによって、初めて安定した状態を維持することができます。私が呼吸をして、息を吐き出し、吸い込む場合に、フーッというかたちでそれを表してみましょう。そうした場合に、喜ぶというのは、フーッと息を吹き出したのと同じで、それをずっとやり続けて喜んでみたら、息苦しさと同時に、必ずむなしさを感じます。そして、寂しさを感ずるのです。それと反対に、非常に寂しくて泣いたとしましょう。そうすると、泣いたあとは、何となく晴れ晴れしたような感じがするのです。これは、喜びの反対のことと考えてください。

 必ず授受作用しなければいけないと言ったのですが、問題は授受作用をどのようにするかということです。喜びを感じているときには、この喜びが、神から私にもたらされる前に、神がサタンとの闘いを通じてどのように苦しまれたかを考え、そして今、その喜びを私たちにもたらしてくださっている、ということを考えてほしいのです。

 私たちが先生からみ言を受けたとしましょう。そうしたら、その恵みを私たちに与えるために、先生は過去にどのような苦しみを通過してこられたのだろうかと、その先生の苦しみを先に考えてほしいのです。

 喜びを得たとしたら、その喜びを得るまでの神の、主の、親の苦しみがあったことを、まず考えてほしいのです。そうすると、喜ぼうとする時に、この喜びを私に与えるために神が、主が、親が、そして我々の先祖たちが苦しんだのちに、このようになったのだと考えて、主体と対象の立場で、まず感謝しようとする心が出てくるのです。ですから、必ずこういう対象の立場を見つけて、喜ぶのです。

 反対に、寂しい時にはどうしたらいいでしょうか。寂しいということを、一つの対象の立場、あるいはマイナスの立場として見てみましょう。その時には、プラスの立場を見つけなければいけません。人間は神の前、真の親の前では、愛する子供の立場です。その子供を苦しめて喜ぶ神もなければ親もないのに、なぜ愛する私たちにこういう苦しみを与えなければならないのだろうか、こういう寂しい境地に追い込まなければならないのだろうか、と考えてみるのです。それは、そういう蕩減の道を通じて、もっと大きな恵みを与えんとする神の愛があるからこそだ、ということを考えなければいけません。

 寂しさや苦しさを感じるのは、蕩減しなければならない条件が、私たちに提示されたのです。神は、子供に、その蕩減を払わせなければならない条件があるのだから、仕方がないのです。

 しかし、これを勝利したら、神は最も大きな愛を与えようとして待っていらっしゃるのです。そのような神を思うと、ただ一方的に私は死にたい、もう苦しくてたまらないという考えに走らないで、神はもっと大きな愛を私に与えようとしているのだ、という神の愛を感じて、私たちは、望み、希望をもつことができるようになるのです。

 それゆえ、私の心がプラスの立場に立っているときには、早くマイナスの立場を考えなさい。マイナスの立場に立っているときには、早くプラスの立場を考えなさい。マイナスの立場に立っているときには、必ずプラスの道を見つけなさい。そうすることによって授受作用するのです。

 今お話ししたようにするならば、喜びの中にあっても感謝しながら、神がこのようにして苦しまれたので、私に恵みや喜びが来たのだと考えるときには、喜んだのちに寂しいと感じることは、あり得ません。そして、いくら苦しいことがあっても、死にたいことがあっても、このような考えをもつとするならば、神の恵みを見つけることができます。授受作用できずに、喜んでばかりいたら、力を全部消耗するし、また悲しんでばかりいたら、悲しみで全部の力を消耗し、何もかもなくなってしまうのです。

 世の中には、そういった例がたくさんあります。山登りは非常に困難が多いけれども、登ったときの喜びを考えながら登ります。そして下りるときには、注意深く登った心で下りるとするならば、失敗しないのです。そういう心をもたないで、そのまま下りていったら、失敗しやすいのです。転落することがあるのです。

 お金がなかった者に、急に大きなお金ができると、それによって人は失敗しやすくなります。ですから、貧しい人がお金持ちになったときには、お金のない人のことを考えて、初めてそのお金を維持していくことができるのです。

 皆さんが40日の蕩減条件を立ててお祈りをしたとしましょう。40日を勝利するのは非常に難しいのですが、勝利した時には大きな喜びを得るでしょう。その時に、失敗しやすいのです。喜びがもたらされる前の、40日の苦しみの過程を考えないからです。それを考えながら喜びを享受するならば、絶対にそんなことは起こりません。

 教会草創期のメンバーたちは、恵みに、真理に触れてよみがえった心持ちで、その喜びのままに、どうしようもなくて駆けつけてきたのです。そして伝道は、「統一原理」を語るというよりも、「メシヤが来ました」と言って伝道するのです。そういう喜びは、必ず心の中に秘めておかなければいけません。喜びを与えるために、今まで苦しまれた神を考えながら喜ばなければいけないのです。でないと、ややもすると、そういった失敗を起こすことがあるのです。

 喜びにあふれていたから、先生の言うことを、よく受け止めて聞けなかったのです。それで、家庭や教会からたくさんの迫害を受けるようになったのです。そこでメンバーは、その蕩減を受けるのですが、その上、メンバーをリードしている先生がすべての蕩減を受けるようになったのです。分かりますね。

 これから、皆さんに難しいことがあったり、あるいは喜ばしいことがあったりしたときには、いつも、授受作用の原理を頭に思い浮かべてほしいのです。私たちは喜ぶときには、躍り上がるように喜び、悲しいときには、人が見てすぐ分かるように表情に出しますが、先生をずっと見てまいりますと、先生はそういうことがあっても、なかなか表に表されません。

 先生に良い報告をした人が、「こんなにいいことなのに、先生は喜ばれないのかなあ」と思ってしまうほど、本当に無感覚のような様子のときがいくらでもあります。

 しかし、何日かあとになってみると、そのことを人の前でお話しされるのです。それを見て、「ああ、先生は、非常に喜んでいらっしゃったのだなあ」と分かるのです。反対に悲しいことがあっても、先生は全然それを表さないで黙っていらっしゃり、かえって喜ばしいことを話されるのです。

 マイナスの心のときに、先生は意識的に、プラスの心に誘導しようとなさるのです。ですから先生は、それほど感激も見せず、またそんなに悲しい顔も見せられないのです。

 それで、先生をいつも眺めていますと、何も語らず、古い苔(こけ)の生えた岩のような感じがします。先生は、本当にたくさんの事情を抱え、感情を抱えていらっしゃいますけれども、それを表されないので、非常に重く見えるのです。

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 次回は、「霊界から導かれたおばあさん」をお届けします。


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