シリーズ・「宗教」を読み解く 172
キリスト教の人生観④
「み言の実体」は教理に勝る

ナビゲーター:石丸 志信

 『キリストにならいて―イミタチオ・クリスチ』(トマス・ア・ケンピス著/由木康訳 キリスト教古典叢書 教文館1973年)の冒頭に次のようにある。

 「『わたしに従ってくる者は、やみのうちに歩くことがない(ヨハネ8・12)』と、主は言われる。このみ言葉は、もしわたしたちが自分の盲目から啓発され解放されたいと願うならば、キリストとその生き方とにならわなければならぬ、と勧めているのだ。だから、わたしたちの主要な努力と無上の関心とは、キリストの生涯に照らして自分を訓練することでなければならぬ。キリストの生涯は、あらゆる教理にまさっているからだ」

▲イエス・キリスト(山上の垂訓)

 修道者は、聖書に記された神のみ言を受け止める者に、知的理解にとどまらず、どのように生きるかを示していく。そこでは、イエス・キリストの生涯に照らして己を訓練し、キリストに似たものになることを勧めている。
 そのような人生を歩む者こそ本物のキリスト教徒だと言いたいようだ。

 注目すべきは、信仰生活は、単に「教理」を覚えてそれを守るという次元ではなく、イエス・キリストの姿に近づくために歩み続けることを求めている。
 そして「神のひとり子」イエスは、歴史のただ中で肉体をもって生きた存在として、彼らの人生のモデルとなっている。それ故に「み言の実体」は教理に勝っているといえるのだ。