信仰と「哲学」73
関係性の哲学~スピノザの哲学に対する見解(7)

イエス・キリストは理想の賢者

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 「彼は人々の心の奥に、永久に消えない神の掟を刻み付けた」(『神学・政治論』)

 これはスピノザの言葉であり、「彼」とはイエスのことです。キリストという称号と共にこれ以上ない尊敬と賛美の言葉で人間・イエスの価値を表現しているのです。

 既述のようにユダヤ教会から除名されたスピノザです。しかし一度もキリスト教への改宗を望んだことはありませんでした。徹頭徹尾、既存の宗教が抱え込んだ「迷信」、信者を隷従させるために不安や恐怖心をあおっている姿を拒否したのです。
 それはユダヤ教であろうがキリスト教であろうが変わりませんでした。

 彼はどんな宗教組織にも属さず、どんな信仰にも縛られない生き方を、身命を賭して貫こうとする自由人でした。しかしそのためにユダヤ教のラビやキリスト教の高位聖職者からも理解されず、弾圧を受けることになったのです。

 スピノザは、預言者たちは自分の想像力を駆使して神の言葉を受け取ってきたと言います。それ故彼ら(預言者たち)の言葉は、必然的に個人的、文化的な感性や考え方、偏見や固定観念の影響を受けることとなるので、文字どおりの意味に解釈されるべきではないというのです。

 このように強く主張していたスピノザが、驚くべきことにイエス・キリストだけは例外で、この原則は適用されないと言い切ったのです。

 以下はスピノザの言葉です。

 「キリストは人類の救いに関する神の計画を、言葉や幻影を介してではなく、神から直に啓示された。(略)それゆえ、キリストの声は即ち神の声、かつてモーセが聞いた声と同じものとみなすことができる。この観点からすれば、神の叡智、つまり人智を超えた叡智は、キリストにおいて具現化され、それによってキリストは神の救いの道となったとも言える(略)。キリストは『霊』(キリスト教で『聖霊』といわれるもの)を通して神と意思の疎通を図った。(略)結論として言えることは、これまでのところ、想像力の助けなしに、つまりメッセージや映像を介さずに神から直接啓示を受けた人は、キリストを除いて誰もいなかったということである」(『神学・政治論』)

 旧約聖書、新約聖書を幾度となく精読したスピノザが出したモーセ、イエス観は驚くべきもの、奇跡と言えるものでした。
 命を狙われるほどのユダヤ、キリスト教批判は、彼が神を愛するが故のやむにやまれぬ、自分の存在を懸けた叫びだったのです。

 イエス・キリストは理想の賢者像を体現した人であり、あらゆる間違った考えから解き放たれた自由な精神を持つ人である。キリストは「『永遠の真理』を人々に伝え、それによって人々を掟への隷従から解放した。そして同時に、掟の正しさを実証し、確たるものにした彼は、それを人々の心の奥に永遠に刻みつけた」(『神学・政治論』)と、スピノザはイエスを絶賛しました。

 私にとってスピノザは、文鮮明師へと流れる「信仰と『哲学』」の道を示す哲学者です。