日本人のこころ 42
京都府―『伊勢物語』

(APTF『真の家庭』263号[2020年9月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

最古の歌物語
 「むかし、男ありけり……」で始まる『伊勢物語』は平安初期に成立した最古の歌物語で、当代一の歌人、在原業平(ありわらのなりひら)と思える主人公の元服から最期までを、和歌と物語で綴ったものです。作者は不詳ですが、後の『源氏物語』などにも大きな影響を与えた古典文学の傑作と言えます。

▲在原業平(ウィキペディアより)

 私は高校時代、古典の授業で『伊勢物語』の「東下り」を読み、「名にしおはばいざ言とはむみやこ鳥 わが思ふ人はありやなしやと」の歌を印象的に覚えています。東京で都市問題の研究所にいて、隅田川から東京湾のクルージングをした時、デッキの上をユリカモメが群れを成して飛び交うのを見て、ふと思い出したものです。なぜ東に下ったのか、思う人とはだれなのか、心に残りながら、物語の全容を読むことはありませんでした。

 思い続けていると叶うもので、芥川賞作家の高樹のぶ子さんが最近、『小説伊勢物語 業平』(日本経済新聞出版)を出しました。原本の125段を基に業平の一代記を小説にしているので、時代背景とともに全体のストーリーや人間関係がよく理解できます。

 業平の父は平城(へいぜい)天皇の第一皇子・ 阿保(あぼ)親王で、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王です。高貴な身分にありながら、「薬子(くすこ)の変」により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移ったこともあって臣籍降下、つまり皇室を離れて臣下になり、兄・行平らと在原姓を名乗ります。810年、平城上皇と嵯峨天皇が対立し、天皇側が兵を出したことで平城上皇が出家し、平城上皇の愛妾だった藤原薬子や、その兄の参議・藤原仲成らが処罰されたのが薬子の変です。

 業平は蔵人(秘書)として天皇の身近に仕え、途中、不遇な時代を過ごしながらも、陽成(ようぜい)天皇の時代に蔵人頭に出世します。『古今和歌集』に30首が収められるなど歌人として知られ、鷹狩りの名手でもあったと伝えられています。

 『伊勢物語』では、文徳天皇の第一皇子でありながら母が藤原氏ではないため天皇になれなかった惟喬(これたか)親王との交流や、清和天皇女御でのち皇太后となった藤原高子(たかいこ)、惟喬親王の妹で、伊勢神宮の斎宮となった 恬子(ひろこ)内親王との許されない恋などが語られています。

 万葉集の時代から今日まで、日本人の歴史は歌で綴られ、創られてきたように思います。業平と同じく「言葉を信じる」という高樹さんは、晩年の業平に「私は歌に生きております。歌は叶わぬこと、為しえぬことも、詠み込むことが出来ます。命を越えて生き長らえるのも、歌でございます」と語らせています。

自分と人に誠実に生きる
 高貴な皇孫に生まれながら、反体制的で自由奔放な生き方をする貴公子というのが業平のイメージで、だからとりわけ女性に人気があったのでしょう。女性関係で非難されたり、恨みを買ったりしながらも、業平が失脚させられなかったのは、詠む歌の素晴らしさと、人に対する誠実さにあったと思われます。

 上記の言葉を発したのは、同じく天皇の子として生まれながら、姓を賜って臣下になり、歌詠みとして名声を博しながら、藤原基経(もとつね)との確執で辞意を上奏した源融(とおる)の説得を陽成天皇に託され、隠れ暮らす嵯峨野の御堂を訪ねた折のことです。「それで満足なのか」と問う融に、業平は「満足ではございませぬが、叶わぬこともまた、歌には必要なのでございます」と答えています。血筋を誇りながら、政争に敗れた融に比べ、危ういながらも官僚の地位を保った業平が対照的に描かれています。

 最大の危機が、東下りの原因となった藤原基経の妹高子との恋。後に清和天皇の后となる女性なので、業平は藤原氏による災いを避けようとしたのです。ですから、思ふ人とは高子姫です。もっと関係が深いのは斎王になりながら業平の子をなした恬子内親王で、任を解かれ尼となった恬子は、業平を慕う侍女の伊勢を業平に預けます。『伊勢物語』は業平の従者で乳母子の憲明(のりあきら)が記録し、伊勢がまとめたという説があり、高樹さんの小説はそれに沿っています。

 面白いのは、主人の恬子への思いからか、「年寄りは嫌」と言い張り、妻ではなく侍女として老後の業平を世話する伊勢が、業平とのやり取りで次第に歌の腕を上げていくことです。「神仏は、生涯に波風を立てられて私を試されたが、性骨込めて生き抜いたゆえ、最後には褒美にそなたを与え下された」と語る業平は、あまたの恋の遍歴の果てに、理想の女性と巡り会えたとも言えます。

 高樹さんは、「女性に対して、言葉を尽くして、まことを尽くした人だから。人間力があり、女が何を喜ぶかという、情のかたちを相手に添わせることができた」「貴き筋の生まれでありながら権力から離れている人間の、感性の豊かさ。それはのちの、西行や鴨長明や芭蕉、隠遁者と呼ばれる人のもののあはれを感じる力、その系譜につながっていく」(『クロワッサン』1023号)と語っています。

 「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」の歌に感じた惟喬親王は業平に、「業平殿には、女人もまた、花と同じかと……」と語りかけます。しかし、そのように心を動かしてくれる人がいるから、人は成長するもの。人との出会いの大切さは昔も今も変わりません。

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