日本人のこころ 41
東京都―上橋菜穂子『鹿の王』

(APTF『真の家庭』262号[2020年8月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

〈鹿の王〉たちを守ろう
 人はそれぞれ自分の物語を作りながら生きている。生きるとは物語ること―という思いが私の心の底にあります。母との思い出で一番楽しかったのは、寝床で聞かせてくれた昔話。何度も聞いた話でも、母の声色が面白かったのを覚えています。

 高校の同級生で英国ファンタジー研究者になったノートルダム清心女子大学名誉教授の脇明子さんは『物語が生きる力を育てる』(岩波書店)で「物語による仮想体験には、不足しがちな実体験を補う力があり、それ以上に人間らしさを失っている今の社会状況を変える力もある」と言っています。

 今、人工知能(AI)が時代的テーマですが、その研究者で数理工学者の甘利俊一東大名誉教授は、人間はそれぞれ自分の世界を持っているが、コンピューターにはそれができない、とAIの限界を指摘しています。AIがあらゆる分野に入ってくる時代、大事になるのは一人ひとりが自分の世界を持つことです。

 その世界は言葉で表現されますから、つまり物語です。イメージとしては、一人ひとりが大きな円の中心にいて、その円が交わりながら共生しているのが家族や社会です。ですから、人を理解するには、その人の言葉の背後にある世界を知ることが必要になります。要するに、その人を丸ごと理解しないと、今の言動の意味を知ることはできないということです。人を知るとはその人の物語を知ることなのです。しかも、その物語は日々の体験や情報で変化するので容易ではないのですが、それがまた面白いのです。

 「小さなノーベル賞」と言われる国際アンデルセン賞を受賞した児童文学作家で文化人類学者の上橋菜穂子(うえはしなほこ)さんは、新型コロナウイルス感染症のパンデミックに対して412日のブログで「〈鹿の王〉たちを守ろう」と呼び掛けています。

 「いま、この時、自分の命を危険にさらして、他者を守るために、一生懸命働いている人たちがいます。医師や看護師などの医療従事者、保健所の方々など、…多くの人たちが、感染リスクがあることを知りながら、他者の命と暮らしを守るために、最前線で働いておられます。こういう方々のことを思うと、私は、自分が書いた『鹿の王』という物語の一節を、思い出してしまいます」

 同書では、群れを守るために、自らの命を賭して、恐ろしい敵の前に躍りでる鹿のことを、敬意をこめて、〈鹿の王〉と呼んでいます。物語は次のようです。

 強大な帝国にのまれていく故郷を守る戦士団。その頭だったヴァンは、捕らわれて奴隷となり、岩塩鉱で働かされていた。ある夜、不思議な犬の群れが岩塩鉱を襲い、謎の病が発生する。その隙に逃げ出したヴァンは幼い少女を拾う。

 一方、移住民だけが罹かかる病が広がる王幡領では、医術師ホッサルが懸命に治療法を探していた。

 虐げられた部族がウイルスを武器に使おうとして生じる混乱と葛藤を、壮大なスケールで描く大人向けファンタジーです。

 上橋さんは「『人は、自分の身体の内側で何が起きているのかを知ることができない』ということ、『人(あるいは生物)の身体は、細菌やらウイルスやらが、日々共生したり葛藤したりしている場でもある』ということ、そして、『それって、社会にも似ているなぁ』ということ、この三つが重なったとき、ぐん、と物語が生まれでてきた」と「あとがき」に書いています。本書は2014年の本屋大賞に選ばれています。

『獣の奏者』
 本年1月、上橋さんの『獣の奏者』が米国図書館協会のヤングアダルト部門が優れたヤングアダルト「作品」に贈るプリンツ賞(銀賞)を受賞しました。同書を英訳したカナダ生まれで香川県高松市在住の翻訳家・平野キャシーさんは、「日本語が原作の受賞は初めてで、翻訳書としてではなく純文学として受賞したもの。上橋さんの作品の力がアメリカでも認められたことで、文学が国境を超えて人々に届いたことが一番の喜びです」と語っています。同書のあらすじは……

▲米国プリンツ賞を受賞した上橋菜穂子・著『獣の奏者』の英語翻訳版『The Beast Player』

 舞台は古代の仮想国。神の山から降臨したとされる真王の一族が治める真王領と、外敵から真王領を守る大公の大公領とがある。大公は昔、外敵から国を守るために真王から「闘蛇の笛」を授かり、野生の闘蛇を飼いならして、外敵を撃破してきた。

 主人公は大公領に暮らす少女エリン。闘蛇衆の頭だった父は既に亡く、獣医の母は「牙」と呼ばれる闘蛇の飼育を任されていた。ある日、10頭の「牙」を死なせた責任を負わされ野生の闘蛇に食い殺され、エリンも殺されそうになるが、母の助けで逃亡する。

 エリンはたどり着いた真王領の端で、蜂飼いのジョウンに助けられ、蜂の飼育を手伝うなかで生物の不思議に目覚めていく。野生の王獣の親子を目撃したエリンは、その生態に引かれる。やがてエリンはジョウンの友人が教導師長を務める王獣の保護場で、獣医を目指すことにする。

 王獣は闘蛇の天敵で、人は無音の笛で王獣を麻痺させ飼い慣らしていた。それに疑問をもったエリンは、怪我をして食事もしない幼獣を助けるため、自分が奏でる竪琴の音で心を通わせようとし、試行錯誤の末、とうとう意思疎通に成功する。ところが、そのことで国を左右する事件に巻き込まれてしまう。

 上橋さんのファンタジーは大人向けで面白いので、ぜひ読んでみてください。

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