日本人のこころ 40
栃木県―エドウィン・O・ライシャワー『円仁 唐代中国への旅』

(APTF『真の家庭』261号[2020年7月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

日米の架け橋
 元駐日米国大使のエドウィン・ライシャワー博士は円仁の研究者でもあります。博士は円仁自身が書き残した『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』を高く評価し、英訳して世界に公表しただけでなく、玄奘の『大唐西域記』、マルコポーロの『東方見聞録』、円仁の『入唐求法巡礼行記』を世界の三大旅行記とした上で、円仁の著作を他の二つとは比べようもないほどの歴史的価値があると述べています。その英訳本を和訳したのが『円仁 唐代中国への旅』(講談社学術文庫)です。これにより、同書は日本でも広く読まれるようになりました。

 ライシャワー博士は1910年、キリスト教長老派教会宣教師で東京女子大学創立にかかわったオーガスト・カール・ライシャワーの次男として、東京で生まれました。ライシャワー家はオーストリア系移民で、祖父は南北戦争で北軍に従軍、父は宣教師として日本に派遣されていました。

 博士は日本のアメリカンスクールを出てハーバード大学に進み、ハーバード燕京(えんきょう)研究所所長を経て、日米安保闘争直後の1961年から66年まで駐日アメリカ大使を務めました。燕京は北京の古称。大使退任後はハーバード大学日本研究所所長として幅広く日本研究を深め、後進を育成。その功績から、同研究所はライシャワー日本研究所と改称されています。

 再婚相手が、明治の元勲・松方正義と生糸貿易の先駆者でニューヨークに初めて貿易会社を設立した新井領一郎の孫・松方ハルで、彼女はアメリカンスクールの後輩でした。日本人として忘れられないのは1964年、当時19歳の統合失調症患者にナイフで大腿を刺された事件です。重症のため輸血を受け「これで私の体の中に日本人の血が流れることになりました」と発言し感動を呼びましたが、それが元で肝炎に罹ります。

 晩年、マサチューセッツ州に暮らした博士は1990年、肝炎で亡くなります。「日本とアメリカの架け橋になりたい」との遺言から、遺灰は太平洋に散骨されました。

▲エドウィン・O・ライシャワー(ウィキペディアより)

慈覚大師円仁
 円仁は794年、下野国(しもつけのくに・今の栃木県)の生まれで、後に第3代天台座主となり、慈覚大師と呼ばれます。当時、中国円仁や円珍らが唐に渡って、最澄が持ち帰った密教を補い、天台教学を完成させたので、比叡山は多くの日本仏教の宗祖たちが学ぶ母山となったのです。

 『入唐求法巡礼行記』は日本最古の旅日記で、9年半にわたる流浪と冒険、唐代末期の動乱や庶民の実態をリアルに描写しています。五台山への巡礼、長安にある資聖寺での暮らし、時の皇帝・武宗による仏教弾圧「会昌(かいしょう)の廃仏」を生々しく伝え、歴史資料としても高く評価されるものです。

 中でも興味深いのは、迫害を恐れ逃走する円仁を助けたのが、中国各地に住む新羅人だったことです。唐の後半、二大貿易港が揚州と広東で、中近東から日本に及ぶ国際貿易に多くの新羅人がかかわっていました。円仁は、中国東部から朝鮮、日本は、大部分が新羅人によって交易が行われていると記しています。

 円仁が9歳から15歳までの6年間、修行を積んだのが栃木県岩舟町にある大慈寺で、毎年1月には「円仁まつり」が催されています。大慈寺は聖武天皇の737年、行基によって建立されたと伝わり、伝教大師最澄が天台宗の東国布教の拠点にし、最盛期には広い境内に七堂伽藍を備え修行僧が数千人もいたそうです。

 円仁は15歳で比叡山に登り、最澄の弟子となります。次第に頭角を現した円仁は、最澄に代わって講義するまでになり、亡くなる直前の最澄から天台宗の瞑想法「一心三観」の妙義を伝授されます。最澄の死後、円仁は日本各地の布教と人々の救済に粉骨砕身し、特に東北に多くの足跡を残しました。

 43歳の時、天台宗の密教を完成させようと最後の遣唐使一行とともに、短期の留学僧として唐に渡ります。円仁は時を惜しんで仏法の修行に励みましたが、留学条件などの制約から、天台宗の発祥の地である天台山に行く許可は得られませんでした。本来なら遣唐使一行と日本に帰らなければならないのですが、求法への強い思いから一行を離れ、自力での旅を続けることを決意します。

 異国での無許可の旅は危険で、想像をこえる困難の連続に遭遇しますが、弟子たちと歩き続け、天台山に並ぶ仏教の聖地・五台山に辿り着き、修行することができたのです。その後、円仁と弟子は、当時世界最大の国際都市である長安に向かい、資聖寺などで密教の修行と求法に大きな成果をあげました。

 しかし、長安で愛弟子の惟暁を亡くし、さらに武宗による仏教弾圧のため、絶え間なく命の危険にさらされます。最先端の仏教を日本に持ち帰りたいという信念が実を結び、ついに9年半ぶりに帰国を果たしたのです。

 帰国後、円仁は61歳で天台座主になり、71歳で亡くなるまで比叡山の発展に尽くしました。唐での学びをもとに最澄が説いた天台宗を発展、大成させたのです。国家の安泰を願い、苦しみの民衆を救おうと教えを広め、数多くの寺を開き、地方文化発展にも貢献しました。没後2年の866年、高僧に授けられる尊称の大師号「慈覚大師」が、日本で初めて朝廷から円仁に贈られています。

オリジナルサイトで読む