日本人のこころ 39
奈良県―松本清張『火の路』

(APTF『真の家庭』260号[2020年6月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

日本古代史を推理
 『点と線』『ゼロの焦点』『砂の器』など多くのベストセラー推理小説を残した松本清張は日本古代史にも関心が深く、晩年の大作が古代ペルシャと日本との交流を描く『火の路』(文春文庫)です。清張の求めに応じて古代史の知見を紹介した古代史家の森浩一は、同書の「解説」で「清張さんの大胆な仮説の提出が学界の起爆剤となった」と述べています。

 清張は取材のため1978年、NHKの取材班と共にイランを探訪しました。その記録が『ペルセポリスから飛鳥へ』(日本放送出版協会)で、同行したディレクターの水谷慶一は「炎暑の中をまる一日歩いたあとも、夜は夜で勉強と執筆がかかさずつづけられた。二つの大きなトランクに詰め込まれた資料の本の山が一晩のうちにホテルの部屋いちめんにばらまかれる。それを毎朝、整理して再びトランクに詰めなおすのが、私とスタッフの日課となった」と感嘆しています。それほど古代史の解明は魅力的だったのでしょう。

 実は私も同年、国際会議の仕事でテヘランに行っていて、不思議な附合を感じます。王宮に招待され、パーレビ国王とファラー王妃にも拝謁したのですが、翌79年にはホメイニー師によるイラン革命が起こり、失脚した国王はアメリカに亡命しました。それが今のイランとアメリカの対立の始まりです。

 2016年、奈良市の平城宮跡から出土した8世紀の木簡に「破斯清通」というペルシャ人とみられる役人の名があると判明したことから、古代日本とペルシャ(波斯)との交流が再認識されています。飛鳥には猿石や酒船石、鬼の俎(まないた)・鬼の雪隠(せっちん)など謎の石造物が多く、橿原市の益田岩船とともに、古代史家の間でペルシャとの関係が指摘されており、密教の護摩焚きにはゾロアスター教(拝火教)の影響があると思われます。

 『火の路』の主人公は、古代ペルシャと飛鳥との交流を解明しようとする若い女性古代史家で、そこに殺人事件が絡み、推理小説風に物語が展開されます。清張の推論は下巻の最後、イランのゾロアスター遺跡を旅する主人公の独白として紹介されており、この論文が小説の主役だと清張は語っています。

 もっとも森浩一は、論文というより、そのもとになる「創作ノート」のほうが好きだと語っています。論文は学界の決まりに従う必要がありますが、ノートはいろいろな仮説や想像を書き込むことができるからです。

 東大寺の近くにある奈良国立博物館では、毎年秋に正倉院展が開かれます。聖武天皇の遺品を光明皇后が東大寺に寄贈したのが正倉院の始まりで、仏教立国を目指した夫婦の歴史が感じられます。2012年の正倉院展の目玉の一つがペルシャ由来の青いガラスコップ「瑠璃坏(るりのつき)」でした。

 清張のイランへの旅も、始まりはその十数年前、テヘランの骨董屋で手に入れた正倉院宝物と同じ形の白瑠璃碗で、そこから古代イランと日本との気の遠くなるような旅に出たのです。下巻で主人公は次のように述べています。

 「結論から先に言えば、益田岩船の上部平面で東西にならぶ二つの方形穴は、拝火壇の火を燃やす用途であったと推測したいのである。つまり岩船全体がゾロアスター教の拝火壇と基壇とを兼ねた石造物と考えるのである」

▲松本清張(ウィキペディアより)

斉明天皇はゾロアスター教徒?
 益田岩船が造られたのは斉明天皇(皇極天皇が重祚)の時代、同天皇は舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母です。皇極天皇時代の645年には、遷宮した飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で大化の改新の始まりとなる乙巳(いっし)の変が起きました。『日本書紀』には、しばしば大規模な工事を好んだため、労役の重さを人々が批判したとあります。多くは飛鳥の都の物流のための運河ですが、今も飛鳥に残されている謎の大きな石造物も斉明天皇によるものとされています。清張は、斉明天皇はゾロアスター教の儀式に使うため益田岩船などを造ったと推理したのです。もっともその仮説は、近年の発掘調査により否定されています。

 日本が国づくりのモデルとした唐の長安は、当時、世界最大の国際都市で、多くのペルシャ人も住んでおり、ゾロアスター教の施設もありました。遣唐使や留学僧がそれに触れ、日本に持ち帰ったことは想像に難くありません。

 約1万年前、古代ペルシャで生まれたゾロアスター教は、世界は光と闇との永遠の闘争の舞台で、死後、肉体は滅ぶが、霊魂は4日目に最後の審判を受け、天界に行くとし、終末には救世主が現れ、悪を滅ぼすとの教えが中心です。イラン高原に住んでいた古代アーリア人は英雄神のミスラや太陽神など多様な神々を信仰する多神教でしたが、紀元前12世紀~同9世紀に神官のザラスシュトラが、善悪を峻別する正義と法のアフラ・マズダー(智恵ある神)を最高神として新しい宗教を創設したのです。224年に成立したサーサーン朝ペルシャ帝国が、アーリア人の諸宗教の中からこの教えを国教としたため、明確な教義をもつ宗教へと発展しました。呪術的な多神教の世界で、世界史上初の倫理的な宗教が、国家形成に役立ったのです。

 ゾロアスター教は、東方では仏教の未来仏(弥勒)信仰を、西方ではユダヤ教・キリスト教のメシア思想の成立を促すことになります。

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