共産主義の新しいカタチ 128

 現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
 国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)

「エピステーメー」で近代論じサドを枢要な地位に
ミシェル・フーコー(下)①

思考の場としての「エピステーメー」
 プラトンやアリストテレス以来の古典的「体系哲学」では、認識や知覚に関する部門を「認識論」(エピステモロジー)と呼んできました。これは「知」(Knowledge)や「科学」(Science)を表すギリシャ語「エピステーメー」に由来しますが、フーコーはこの言葉に特殊な意味を与えます。

 フーコーは、「思考の下地となり、思考を支える根源的な場=秩序となるもの」を「エピステーメー」と呼ぶことにしました。そして「それは抽象的な一般原理ではなく、歴史的な日付においても、地理的な広がりにおいても限定されたものである。エピステーメーはわれわれの文化や思考の台座となる深層の秩序をなしている」(内田隆三著『フーコー/主体の系譜学』)と考えました。

 このフーコー独特の「ジャーゴン」(専門語)である「エピステーメー」とは、科学哲学では人口に膾炙(かいしゃ/知れ渡ること)しているトマス・クーンの「パラダイム」という概念と類似性があります。また、フーコーの師事したルイ・アルチュセールがG・バシュラールから受け継いだ「認識論的切断」という概念にも近いといわれます。いずれにせよ、彼の「エピステーメー」とは「知の枠組み」とも言い換えられるかもしれません。

博士論文として出版『狂気の歴史』
 いかなる時代や社会においても、支配的な「思考の体系(秩序)」が存在することは理解できるでしょう。ただしそれは、科学で言う「パラダイム」ほどには「真理に近い考え」とは見なされません。そして世の人々が「理性」と奉じているものは、実はきわめてあやふやな思い込み(ドクサ)に過ぎないのではないか、として疑義を突きつけるのがフーコーの立場です。すなわち、「狂気」というものも、「西欧近代の社会秩序」という枠組み(エピステーメー)からはじき出され排除された存在なのだと。

 1961年にフーコーは博士論文『狂気の歴史』を出版します。これは、狂気そのものの原初的状態の復元ではなく、狂気を狂気として認定し、捉える時代的な制度や学問の全体がいかに構造的に成り立つのかを研究する「[狂人の]沈黙の考古学」でした。

 ここでフーコーは、「阿呆船(愚か者の船)」を取り上げます。ルネサンス期、ライン河畔やフランドル地方の運河を航行した奇怪な船で、当時「狂人」は出自の町だけが面倒を見るのが自治の通例で「よそ者」は追放され船で連れ戻されたといいます。フーコーはこの「阿呆船」が15世紀の絵画や文学に頻繁に現れたのは、中世末期の西欧に現れた「不安の象徴」と見て、「死」から「狂気」が破局や終末の接近と捉えられたと結論づけます。

 西欧中世では狂気は無秩序の象徴で、人間を楽しませるものでもあり、狂気と理性は相互に置換可能な関係にあると考えられ、モンテーニュやパスカルらは狂気を理性の一部として捉え、「狂気が人間に内在するものであり、排除の対象ではなかった」とします。その状況を一変させたのがデカルトで、「狂気は、思考の成立を不可能にする条件と見なし、ものを考え疑いを持つ人間主体は、狂気を排除するもの」と考えた、とフーコーは分析します。

▲ボッシュ画『愚か者の船』。フーコーは「狂気の排除」と見たが、実は教会腐敗への風刺の表象とされている

★「思想新聞」2026年10月1日号より★

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